1日雑記

2006年11月08日(水)


例えば、今の北朝鮮を巡る情勢というのはイジメであるか。

一国を多数で叩くという状況はイジメにも似ている。
が、理由があるし、イジメだという人は少ないだろう。
少なくとも私はそう思わない。

理由があるなら集団で叩いて良い。

これを正しいとすれば、一部のイジメは正当化される。
国家と個人は違うだろうか?
違うとしよう。
目の前に残忍な犯罪者や、卑劣な犯罪者がいたらどうだろう。
結局のところ、扱いは余り変わらないだろう。
例え法で人権が保障されていたとしても。

責任をとらせるという考えも
言い方は違うものの、本質的なところでは変わらない。
マスコミなどで報道されたならなおさら。
その証拠にコメンテーターが
現場を責めているじゃないですか。

結局のところ、イジメという舞台を
子供から大人に移しただけである。

社会的な責任能力などからも
大人と子供を同一視すべきで無いだろうか?
しかし、大人の中でもイジメという言葉は存在するし
言葉だけではなく、実態としても存在する。

そもそも大人と子供の境界はどこなのか?
イジメの明確な定義はどこにある?
責任追及とイジメの違いは?

これらの境界は曖昧であり
曖昧であるが故になくす事が出来ない。
良く聞く言葉で考えるなら村八分という言葉が出来るくらい
昔からそういう考え方はあったのだ。
そして、一向になくなることが無い。

という事で、前提。
イジメというのは減らす事は出来ても、なくす事は出来ない。

責任追及に意味が無いわけではないが
現在の報道の多くや日常での会話で出てくる
イジメ問題とその責任は結局のところ対象を変えたイジメである。

という事で、この件に関しては、テレビ報道などを聞いていると
イライラしてしまって仕方が無い。
必要となるのは、いじめられた人間に対するフォローである。

……と、言ってもこれも単純じゃない。
正直なところ、私自身もいじめられた経験……というか、記憶がある。
(天然パーマが原因だったり、人に怪我させた事が原因だったり)
一方でいじめていた記憶もあるのだ。
そして、奇妙な事にこの記憶の時期というのは一致する。

一面ではいじめられており、一面ではいじめていたのではないか。
時期が微妙にずれていた気もするのだが
整合性が取れない箇所もあるので、恐らく同時期だろう。

私という人間を基準に考えるのは良くないが
人間である以上、被害者も加害者になりえる可能性は常にある。
グループを形成するという点においては
何か弱いものを叩いて絆を強くするというのは、多々あることだ。

当人が悪い場合はどうなるのか。
セクハラ問題でも
『被害者にも悪いところがあったんじゃないか?』
という事が出てきて、その言葉は否定される。
だが、境界が曖昧である以上、どうにもならない部分は確かにある。


さて、物事について言うだけ言っても改善というのはされない。
私も然り。
という事で、余り現実味の無いものではあるが、改善提案を、ば。

1.クラスという単位の廃止。
 あるいはクラスという単位の人数を莫大にする。
 大学の講義のような、変則的なクラス分け。

結局のところ、個人の情報があり、
そしてつながりというものがあるからイジメは発生する。
クラスという限られた空間では、
その枠の中でつながりは強くなっていく。
繋がりの中から弾かれた人間は、クラスという枠の中で
逃げる事が出来ずに、包囲されていく。
しかし、クラスという枠がなく
しかも多人数がいた場合、全体のつながりは弱くなり
ほころびが生じる。
ほころびはいくつかのグループを産み
個人を責めるケースは少なくなるだろう。
責められても逃げる事が出来るし。
一方、孤立してしまう人は出てくる。
何処にも属す事の出来ない子だが。
だが、イジメは減るだろう。
他にもいくつかメリットはあるが。

2.クラスの構成人数を極端に少なくする。
 加えて、クラス編成(担任を含む)を頻繁に変更する。

上とは逆の発想だが、こちらも効果はあるだろう。
まぁ、上よりも効果は薄いと思うが。

両者で重要になるのは学習指導要領である。
学習指導要領に従った時間割の編成がしっかりと行われれば
変則的な編成をしたとしても、授業に支障をきたさないはずである。
問題は、学習指導要領の内容や変更頻度などが、
ちょっと信用できないものであるということや
学校という空間が勉強の場という方以外はし辛くなるということ。


……と、考えてみたけれど。
結局、お偉いさんや、当事者達が出す結論が結論。
何にも変わらないと思うけどね、私は。
また数年後、同じ内容で同じように騒がれるのだろう。


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