私は人をみているだろうか?
私は人の本心を察する事が苦手だ ……と、自分では思っている。
表面と内面というような言い方をするけれど 内面が全然分からないというか 表面の裏を知ろうともしない。
そう考えたとき、私は人をちゃんと見ているだろうかと 改めて考える事になる。
例えば輪廻転生なんて言葉もよく聞かれる。 魂という言葉がそこに使われていたかは覚えていないが 少なくとも『その人』は繰り返し生き続けるということだ。
人とは何ぞや?と誰しもが考えるような事であるのだが 魂や霊魂というような言葉が言葉として存在するように 肉体と心を別々の概念として考える事は少なくない。
心=脳みそというような方程式を目の前に出され 「何、当然のことをいまさら……」と考える人よりも 「理屈では分かるけど少し違和感が……」と考える人のほうが 多いのではないかと私は思う。 ……というか私は後者なのでそう思うだけなのかもしれない。
ならば、と。 人は何かと問われたとき その本質は肉体にあるのか心にあるのか。 肉体よりも心に愛着を持つ人の方が多いのではないか。
もしも肉体と心をばらばらに考えるのであれば 両方をさして私は人と定義するだろう。 あまり意味のない仮定ではあるが もしもどちらか一方しか選べないといわれれば 恐らく心と言うだろう。
別に統計を取ったわけでも 周りの人に意見を求めたわけでもないが 多くの人はこのように感じるのではないかとなんとなく思っている。
考えてみれば人を人と定義するには肉体が必要なので 『人』という言葉の意味からすると肉体の方が正しいのかも。 『その人』という言葉の定義を考えるなら 心と答えるのはもっとしっくり来るかもしれない。
それはそれとして、少なくとも種としての人ではなく 普段私たちがイメージする人というものの本質に 心の方が近いのならば 表面(肉体)を見ている私は人を見ていないということになる。
幸い、心と体は直結している事が多いので 心が喜べば顔がほころぶし 心が悲しめば涙も出てこよう。
一方で喜びながらも涙を流せる人もいるし(嬉し涙じゃなくて) 悲しみながら笑顔を浮かべられる人もいるわけだ。
要するに表面だけを見ていても人を見ている事には ならないわけで――。
これが顔じゃなくて言葉になればいっそう分かりにくいし 文字ともなればますます分からない。
しかし、と。 人に裏表、心と体が存在するなら その事に何か意味があるのでしょうか? 喜んだときに笑って 悲しい時に泣いて それが裏表さかさまになるような行動に 何か大切な意味が本当にあるんでしょうか?
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