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2004年06月27日(日)  削除したくない理由があるので

独白、と受け取ってもらうのがいちばんいい。

遠くの友人の日記を読みながら、つまらない意地を張っている。

無神経で傲慢。
それ以外に、生きていく道はないんじゃないかとさえ思う。
本当に誰も傷つけずにいたいのなら、
僕らは一生、かたく口を閉ざしていなければならない。
いや、黙って生きていくことすら許されないだろう。
単純なことだが、誰かが生きていれば、誰かが傷つく。
誰かがいなくなったとき誰かが傷つくのと、それは同じくらいの割合かもしれない。

こんな抽象論がきっと、傷ついた人を不快にさせるのだろう。
極めて具体的な現実から導き出した結論でも、結論は常に抽象的になりがちだ。

もし彼女がこれを読んでいたら、夏に会う約束は断られるかもしれない。
そんな些細なことを気にしながら書いている。
会えないのは、とても残念だから。

理解したい、慰めたい、受け入れたい、信じたい、優しくしたい、認めたい、休ませたい。
いろいろな思いや考えがあって、あるいはほとんど無意識に、
人は人を慰めようとするし、相手を近いと感じるほど接触しようとする。
大事な相手だからこそ、どうにかしたいと思う。
そんなふうに自分に関わってくる人の言動を否定するのは、
自分に余裕がないからだ。相手に非はない。

かけられた言葉を否定せざるを得ない辛さがあることは、
(「理解」という言葉は気に障るかもしれないから)「想像」できる。
けれど、受け入れられない自分が、周囲を傷つけるのだと思う。誰かが自分を傷つけたように。
傷つけることを覚悟していなければ、人と接することはできない。
これは開き直り以外の何ものでもない。
けれども、僕はこれを身につけた。ただそれだけのことだ。

そうやって、大切だったはずの誰かが、どこかへ行くまでじっと待っている。
これは、遠くの友人とは何も関係のないこと。僕は卑怯だ。

傷の深さや数を測ることはできない。
傷の手当てができるのは、時間だけだと僕は思っている。
本人にしか治せないという人も、人の手が必要だと思う人も、
環境が大事だという人もいるだろう。もちろんだ。
どれが正しいのでもないし、どれが間違っているのでもない。

僕は卑怯だ。
遠くの傷ついた友人にメールを出すことも手紙を書くこともできるけれど、
こういう形で言葉を並べて、できる限り自分を傷つけないようにしている。
彼女は十分に傷ついている。僕はその傷を逆撫ですることしかできないかもしれない。
だからこうやって、思ったことをただ書くだけだ。
彼女を直接傷つけないかわり、彼女を直接いたわることもできない。

もしも彼女がこれを読んでいなかったら、あるいは読んでも気にしないでくれるなら、
夏に会えたときに彼女の話をただ隣で聴いてこようと、ぼんやり想っている。


真 |MAIL