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2003年03月06日(木) 高校新聞

 私は高校3年生の時に学校新聞の編集長をやっていた。委員会活動として。
 よって、編集長には「主張」という囲み記事の文章を書く義務があった。
 ちょっと紹介しちゃいましょう。

「情熱の軌跡を残せ」
 人の一生において、何にでも興味を持ち、そのことに打ち込むことのできるのは今の時期ではないだろうか。若い心と体をもってすれば何にでも打ち込めるはずであるし、それが当然だろう。
 打ち込むといっても、見た目だけ、うわべだけで終わっている人が多いのではないだろうか。何の熱さも感じないで、ただ自分に課せられたノルマの消化にのみ若い時を使う。こんな消極的な若い心や体ではたしてよいのだろうか。
 興味を持つといっても幅広いので、具体例を挙げてみると部活動がその良い例だろう。毎日授業が終わり放課になると行われる部活動であるが、放課になったということは、自分で自由に使える時間になったということであろう。
 授業中はある意味で自分の欲求を抑えなければならない面もあるかもしれないが、それならばなおさら、自分の持っているありあまる自己表現の欲求を表にムキ出しにすべきではないだろうか。
 辞書によれば、命がけで物事をすることを「一生懸命」と記している。今の無理のきく時にこそ、この一生懸命が大切なのではないだろうか。
 一生懸命と似た言葉に「まじめ」という言葉がある。これも辞書によれば、真剣な態度と記されているが、「一生懸命」に比べ、消極的で、ノルマの消化をするだけのことと定義できるのではないだろうか。
 また一方には、学校生活においても、私生活においてもまるで意欲を示さず、ノルマさえも果たさない人がいるようだ。そしてそれを当然だとさえ考えている。そんな人や、生活全般において情熱をかけて何かをやっている人をあざ笑い、自分は何もせず、ただ毎日の生活を送っている人も少なくない。そんな熱を感じない冷め切った若い心や体では、これからの人生は暗闇であろう。
 自分の一生をひとつのストーリーと考えるなら、死ぬ間際に振り返れば、やはり主人公は自分だろう。どんな物語の主人公でも必ず燃えきっているし、それと同じように、自分の一生のストーリーの主人公も燃えるべきではないだろうか。
 「燃えきる」「命がけで物事をする」ためには、まわりの人の言うままにノルマを消化するだけではなく、その消化したものを、若い心や体で別の違うもの「活力」「忍耐力」などに高揚すべきだろう。また、その昇化する作用こそが燃えることであり、一生懸命な姿となるのではないだろうか。
 本校生の現状を考えると、「まじめ」と「一生懸命」の違いを論じようとしても無駄かもしれない。何も使用としない人が多過ぎるからだ。
 とかく、無気力、無関心、無感動と批判されがちななかで、自分の殻に閉じこもったり、消極的な態度をとるののではなく、若い今のありあまるエネルギーを使いきって、自分の人生のおける主人公の存在を明確にし、自分自身の内だけにでも、その情熱の軌跡を残しておくべきではないだろうか。
 「やればできる」に価値はない。「そのうちやる」と考えるのも、危険だ。若い時は、どんどん過ぎ去って行くのだ。

 今読むと、何と自分を擁護するような内容かと恥ずかしくなる。笑
 部活動ばかりやっていた自分を。

 この文章は、私の許可を得ることなく教頭先生が地元の中学校に講演に行った時に使ったそうである。
 勝手なことを…笑
 なぜかえらく教頭先生はこの文章を気に入っていたようで、私も当時は嬉しかったけれど、こうして読み直してみると我田引水な感があっていささか、困ったなぁ、だ。 






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