リュカの日記

2006年04月17日(月)

現在午前1時29分。
「恋人までの距離(ディスタンス)」を観終わった。
だいぶ気分も回復していたせいか、さっき観ていた時よりは感じるものが多かった。
「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」にしてもそうだが、自分は真夜中から明け方までの静寂を、物思いに耽りながら迎えていくといったイメージの、静かな雰囲気の映画が好きだったのかもしれない。
今観た映画も、主人公とヒロインが深夜の街を徘徊し、野外で夜明けを迎えるシーンが登場していた。
昔は、好きな子とそういった静かな情景、雰囲気、空気や時間を共有したい、という気持ちがあった。
映画を観ていて感じたのだが、
今の自分は、恋愛対象となる少年の気持ちを理解したい、という気持ちが欠けてる気がする。以前は、あれだけ何でもかんでも好きな子について知りたがり、四六時中「どんな価値観を持っているんだろう」「どんなものが好きなんだろう」と想像を膨らませていく事が多かったのに。
また、理解されたい、という願望も。
ふと、救いに見れそうな少年に理解されたく感じても、仮に理解されたらされたらで、「とりあえず、これでいいんだよな」と、ただの形式として締め括ってしまうんだろうな、という事が予測できる。
そして、「それが何だというのだろう」と、次の瞬間には冷めていそうだ。
自分の求める共感も、結局その程度のものになってしまった。
また、そういう少年の相談を受けても、それを気持ちで受け取らず、頭で理解するだけだ。
「この子はこういう事についてこういう風に感じてるんだな。自分は何も認められないのに、その子の価値観を知ったところでどうだというのだ。結局、この子もそういう目に遭わされる事があったら、それを受けた上でのその子の考えは、全て自分の否定の対象にしかならなくなるのだ。だったら、無事なところで、この子の今の気持ちに対しても変わらない」と。
そういう感じ方しか出来なくなった。
求める事が何も無い。
共感する事も、共感される事も求められない。
そして、誰にも共感しないし、誰にも共感されてないのが今の自分だ。
自分が何を求めているのかを考える事が多いけど、そうやって頭に浮かぶかつて感じた希望の知識、今それが叶っても、厭世観から解放されて救われるだろう、なんて思っても、今その条件が揃ったところで「その程度のただの形式」で締め括られてしまうだろう、という事が明白だ。
「あ〜、はいはい。解放されたんだから、もう別の事考えてもいいんだな」程度になるんだろうな。
自分で自分が信用できない。

映画の中で、「人生のもどかしさを受け入れなさい」という台詞があった。
また、エンディングでは「希望をなくし妥協を覚え 喜びのないむなしさを知る。平凡な日々。救いがたい不安の中で すべてが殺風景で 美しいはずの色があせていく。でもこれが人生 きっとうまくいく。私は人生をひたすら生きる」という歌詞が使われていた。
絶望的な状況にも関わらず前向きになれる立派な人だ、と一般的にはなるんだろうけど、
実は、「今は沈んでいるけど、将来何かのきっかけで、全てを『よし』と出来そうな見通しが自分にはある」といった類の余裕を、どこかで持ってる人間の考え方だな。
まだ完全には失われていない希望を、心のどこかで信じている人間の。
まだ救いが残されてるのか。いいな、俺にもそういうの経験あるわ。
と、そんな気持ちになって虚しくなった。
今の自分には、それが無い。
「こうなったら、自分は全てをよしとできるようになれるのだ」という光がもはや欠片も残っていない。
度重なった絶望に対する諦め意識から、全部惰性に変わってしまった。
求めるものも薄れてしまって、たとえ得られたところで「その程度」だ。
薄れてしまったものは取り戻せない。
一生このまま無意味なままで、無意味どころかやるせないまま終えていくのだという事を知っている。たまらない。

一度は得られそうになったんだから、いつか別の形でまた得るべきなんだ、という強迫意識を持っている。
一度、かつての条件での納得を得て区切らないと、と。
でも、それを得たところで「その程度」
虚しくてしょうがない・・
激欝だった頃より、さらに状況は悪化している。
以前はまだ、少年に対して光があった。
実際には言葉を交わす事さえ無くても、どこかでタイプの少年の一般道徳的な価値観を見聞きする機会でもあれば、救われてもいいのかもしれない、と。
もう今となっては、タイプの少年の価値観に触れたところで、一度全否定してしまったからには取り戻せない。「その程度」で、結局惰性を感じるだけだ。
自分の精神は、一度否定したものを、再び「よし」と感じる事が出来るようには出来ていない。
また、自分でそれを許さない。
10代の頃には、まだ柔軟性もあったのだろうが。
今の自分は、一時のテンションで自分ルールを覆すような事が絶対に無いから。生き方にまで影響を及ぼすような大きな事なら尚更。
単なる意地というものではなく、強迫意識。
為になる、ならないに関わらず。
それでも、以前は、絶対視していたほど神聖だった、タイプの少年の意思如何によってはそれを覆す事が出来るかもしれない、という意識もあったな。
でも、その少年自身が自分にとって認めるわけにはいかない存在になってしまって、もはや完全にどうしようもなくなってしまった。

今日は午前10時40分頃に目が覚めた。
以前ネット上で耳にした、少年がいやらしく凄惨な目に遭わされる話が頭に浮かんだ。
日本人の美少年が男達に集団レイプされたり、変態共相手に人身売買されたり、他の少年の見せしめに手足を切断されダルマにされたり。
そういう事をする組織が存在していて、日本の可愛い少年が餌食にされてしまっている、という暴露話だ。
寝起きからその話が頭に浮かんで、普通に欲情して、普通に処理して。
あり得ないと嘆く気持ちも、汚い奴らの非人道性に憎悪をたぎらせる気持ちも、それらに欲情する自分自身を嫌悪し罪悪感を感じる事も、殆どなかった。
それら全部に目をつぶり、みたいな感じで浮かべてしまった。
妄想して性欲処理し、気持ちを落ち着けた今になっても、それらの気持ちから目を背け続けている。

1.2時限目には出席する事が出来なかった。
俺が学校に到着したのは、3時限目の「都市社会学」の授業が半分くらいにまで差し掛かった頃だった。
空き教室で弁当を食べたり、ジャンプを読んだりして過ごし、結局3時限目にも出なかった。
4時限目は授業が無い。
そのまま、空き教室で過ごし続けた。
5時限目は「カウンセリング論」
今日は、これだけ出席した。
ちゃんとノートも取って、真面目に受けた。
この講義の先生が、「大学にも、よく『この犯罪者に責任能力があるのかどうか』を調べてくれという依頼が来る。自分が若かった頃、まだ院生だった頃だけど、自分が犯罪を犯したかどうかも覚えていないというオッサンを、詐病かどうか調べて欲しいという依頼が来た。自分は助手として参加した。このオッサンに責任能力があるのかどうか、催眠療法をやったりもした」という事を話していた。
例えば、タイプの少年を犯したり傷つけたりした奴について、そういう依頼が来たらどうだろう、と考えた。
精神的に問題があるとなったら、そいつは解放されたりするのだろうか。
また、少年に対する性犯罪者が法によって、ちゃんと罰が与えられたところで、数年したら釈放される。
少年を陵辱したような奴に、社会は更正の機会を与えて、再び世に送り出すのだ。
信じられないほど可愛くて、何より綺麗で尊い存在。
そんな少年を汚した、何の価値もないような最低以下のゴミ虫野郎を、社会は何の権利があって許すのだろう。
そういう少年以上の存在なんて居ないのだから、それを傷つけたり汚したりした奴らに許しが与えられるなんておかしいじゃないか。
そいつを許すという事は、社会がそいつを被害に遭わされた少年以上の存在だ、と位置づけている事にもなるんじゃないのか。
そういう子がやらしい目に遭わされたのに、社会はそういう少年に対して何の権利を持ってるつもりだ。
許すなんてありえない・・
社会が勝手にそいつを許す。
そんな感じの怒りがたぎって、たまらなかった。


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