2004年10月21日(木) 孤高の小説家
 

9/27からの連載になっています。まずは27日の「いってきます。」からご覧ください。


旅に出て8ヶ月と13日目。
わたしは山奥のロッジで暮らす、女性の小説家に出会った。

山で迷い、途方にくれていたわたしたちを
彼女は優しく迎え入れてくれた。
わたしたちは、温かいシチューまでご馳走になった。

「すみません、ご迷惑をかけて。」
「いいのよ、客人は久しぶりなの。ゆっくりしていって。」

彼女は優しく微笑むと、猫に温かいミルクと
魚の切り身が入ったお皿を渡した。
猫はうれしそうに小さな口で、ぶきように食べている。
暖炉の薪が、熱に埋もれぱちぱちと音を立てた。
わたしは見慣れない、大きな暖炉のそばでいるだけで
心の底からぽかぽかするような気分になった。

「すてきなロッジ。ここで暮らしてるんですか?」
「ええ、そうよ。誰にも邪魔されない、静かな場所でペンを走らすのがすきなの。」
「へえ。」
「木のざわめきと動物の声、風の音。すべてがひとつになっているの。」
「おひとりでここに?」
「そうよ、小説に人は必要ないもの。」
「寂しいでしょう?」
「わたしには小説が恋人だわ。」

そう言って、彼女は柔らかく微笑む。
けれど、わたしが彼女をしばらく見つめると困ったような笑顔にかわった。

「うそ、恋人には逃げられたのよ。」
「え?」
「最初ここで一緒に暮らしていたのだけど。ぼくにはあなたの見ている世界が分からない、って出て行ったわ。」
「そう。」
「しょうがないわね。わたしは自分の描く世界をどう彼に伝えていいのか分からなかったし、小説のことだけで頭がいっぱいだったもの。」
「それなら、自分の気持ちを書けばよかったじゃない。」

きれいに食べ終えた猫が、そう言った。
彼女は少しだけ笑い、ナプキンで猫の口を優しく拭った。

「書いたの。でも伝わらなかった。紙の上には温度がないから。わたしの思いが少しでも、滲み出せばよかったのに。」
「滲み出す…。」

わたしはふと思い出して、かばんの中から小さな袋に包まれた小瓶を取り出した。
いつかペッパー博士から貰った、あのインク。

「…これは?」
「とある発明家から貰った、書くものすべて滲み出すインクです。」
「書くものすべて…。」
「あなたの思いも滲み出すかと、そう思って。」

彼女はインクを受け取ると、少しだけ振った。
深い藍色の、雲ひとつない夜の色のようなインクが
瓶の中でふわんふわんと揺れ、底に沈殿していた銀色の粉が
きらきらとインクの中を浮遊する。
彼女はしばらくそのインクを見つめ、そして柔らかく笑った。

「そうね、書いてみるわ。」

普段は彼女以外誰も入れないという、書斎でわたしと猫は机に向かう彼女を見守っていた。
彼女は羽ペンの先に、インクをつけると
さらりさらり、まるで踊るように紙の上に走らせた。
字は一瞬のうちに紙の上で滲んでいく。
けれど彼女は躊躇することなく。

わたしと猫は確かに見た。
紙の上から、彼女の描いた世界が滲み出し
滑らかに、優しく頬を撫でていき、窓の外から逃げていくのを。

一瞬、藍色と銀の舞う世界に包まれたとき
わたしは彼女が男の人と寄り添う姿を見たような気がした。
目を開けると、書斎は静けさを取り戻していた。

「彼女の気持ち、彼まで届いたかしら。」

山を下りながら、わたしは隣を歩く猫に聞いた。

「さぁ、届いたんじゃないの。紙の上から飛び出すくらい強い思いなんだから。」
「伝わるかしら?」
「ばかね。」
「え?」
「あんな告白されたら、どんな男だって落ちるわよ。」

そう言って猫は、にこりと笑った。
ざわめく木と風の音、それから動物の声に、薪がゆっくりと燃える音。
それらにふたりの楽しそうな笑い声が混ざるのは、きっとそう遠くない。

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匿名さんからのお題「孤高の小説家」より。





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