ぼんのう
DiaryINDEXpastwill


2004年06月25日(金) タブーの中にこそ

掃除をしていたら、「金賢姫が語る北朝鮮」(文芸春秋)のビデオを出てきた。2巻が出てきたが、1巻が見当たらない。ふうむ…とっておきのエロビデオも出てこない…いや、関係ないな。掃除してこなかった我輩が間違っているワケであって…なんだ、この取り止めのない出だしはよお!(昨日に続き、脳味噌にえにえ)


これ買った時、北朝鮮を語ることは日本ではタブーだった。
虚像を突くことは禁止されていた。
北朝鮮を批判するビデオであるが、これを買った時は周囲からヘンな顔をされたものだ。シンパか?・・ならわかるが、「見えても無視しなければならない謎に殺されるよ」とかいう実体化しない霧に包まれたタブーに恐怖する日本人。

霧に包まれた恐怖。
漠然とした不安。
見えても無視しなければならない謎。

ふと思うに、現代社会における最大のタブーは、これらの条件に即したものとして一番に挙げられるのは「死」ではなかろうか?

「死」というものに向き合わないこと、向き合えないこと、恐怖すること、避けて通ろうとすること…これらはタブーに対しての態度であり、このタブーを前に、周囲はおろおろし、無視しつづけようと躍起になっている。



おかしなことだが、我輩が「死」を感じたのは、物心ついた4歳の時からだ。そしてその年齢から思っていたことは、『我輩自身、常に‘死’に向かっている存在だ』ということだ。これを母に言った時、大変叱られた記憶がある。しかし我輩自身の物事の思考判断において原点となっているのは、この年齢から刻み込まれている「死」というタブーを毎日直視していることだ。

毎日「死」ぬのである。
次の瞬間「死」ぬのである。
わずかな一呼吸の後に「死」ぬのである。
瞬きをしたかしないかの内に「死」ぬのである。



だから生きることに必死なワケなのかもしれない。
だから生きることを楽しんでいるのかもしれない。
だから生きることに感謝をしてるのかもしれない。



この世において、死から免れる人は誰一人としていない。
この日記を読んでいる人は、「死」という無への回帰の線路上にある。
だが、「死」の声を聞く事ができれば、「生」の極みを知ることができる。


怖れるな…と言っても、怖れない人は少ない。逆にその恐れそのものを受け入れろ…恐怖そのものになれ。そしてその中から聞こえてくる声を聞け…「汝、死に向かう存在なり」…。


ANDY 山本 |HomePage

My追加