ぼんのう
DiaryINDEX|past|will
掃除をしていたら、「金賢姫が語る北朝鮮」(文芸春秋)のビデオを出てきた。2巻が出てきたが、1巻が見当たらない。ふうむ…とっておきのエロビデオも出てこない…いや、関係ないな。掃除してこなかった我輩が間違っているワケであって…なんだ、この取り止めのない出だしはよお!(昨日に続き、脳味噌にえにえ)
これ買った時、北朝鮮を語ることは日本ではタブーだった。 虚像を突くことは禁止されていた。 北朝鮮を批判するビデオであるが、これを買った時は周囲からヘンな顔をされたものだ。シンパか?・・ならわかるが、「見えても無視しなければならない謎に殺されるよ」とかいう実体化しない霧に包まれたタブーに恐怖する日本人。
霧に包まれた恐怖。 漠然とした不安。 見えても無視しなければならない謎。
ふと思うに、現代社会における最大のタブーは、これらの条件に即したものとして一番に挙げられるのは「死」ではなかろうか?
「死」というものに向き合わないこと、向き合えないこと、恐怖すること、避けて通ろうとすること…これらはタブーに対しての態度であり、このタブーを前に、周囲はおろおろし、無視しつづけようと躍起になっている。
おかしなことだが、我輩が「死」を感じたのは、物心ついた4歳の時からだ。そしてその年齢から思っていたことは、『我輩自身、常に‘死’に向かっている存在だ』ということだ。これを母に言った時、大変叱られた記憶がある。しかし我輩自身の物事の思考判断において原点となっているのは、この年齢から刻み込まれている「死」というタブーを毎日直視していることだ。
毎日「死」ぬのである。 次の瞬間「死」ぬのである。 わずかな一呼吸の後に「死」ぬのである。 瞬きをしたかしないかの内に「死」ぬのである。
だから生きることに必死なワケなのかもしれない。 だから生きることを楽しんでいるのかもしれない。 だから生きることに感謝をしてるのかもしれない。
この世において、死から免れる人は誰一人としていない。 この日記を読んでいる人は、「死」という無への回帰の線路上にある。 だが、「死」の声を聞く事ができれば、「生」の極みを知ることができる。
怖れるな…と言っても、怖れない人は少ない。逆にその恐れそのものを受け入れろ…恐怖そのものになれ。そしてその中から聞こえてくる声を聞け…「汝、死に向かう存在なり」…。
|