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2004年12月11日(土) NYの街角:法貴信也展@I-20 Gallery, NY



「線」にこだわりつづけるドローイングの作家として、法貴信也氏の名前は聞かれるようになってきているようだ。2002年、2003年と美術手帳にも取り上げられた。その法貴氏の初めてのNYでの個展がチェルシーのI-20ギャラリーで開かれた。

この個展は岡山大学の美術史の助教授である伊藤大輔さんからのご紹介。大輔さんがNYで著書を執筆されていたとき、大分お世話になり、一緒に遊んでいた。(もちろん品行方正な方なので、「遊ぶ」といっても疚しいことはない。ワイナリーやウィリアムスバーグの画廊などご一緒したりパーティに呼び呼ばれという感じ。)

昨日の夕刻、オープニングだったので雨の振る中チェルシーのはずれまで足を運んだ。I-20は、いくつも画廊が入っているビルの最上階(11F)にある。

Taro Nasu Galleryの那須太郎氏が法貴氏と一緒におられたので、ご挨拶。大輔さんから良く伺っていますと言われ、何故か恐縮する。



早速ドローイングを見て回る。実に繊細な、単色の線によるドローイングだ。基本的にはカラーフィールド系を思わせる単色の塗りのキャンバスに淡い色彩の線だけで表現しようとしているものが多い。空白を空白のまま残すという態度は、時折日本の現代作家に見られる戦略であるが、彼の作品においては潔い。ただの素描と捉えられかねない危うさを秘めつつ、そのバランスを上手く取って、向こう側に着地している。

これはおそらく日本の漫画における空白の文法に均しいのかもしれない。つまり、ブランクをそのまま想像によって埋めるという手法である。これがNYの人々にどのように受け取られるのか、興味は尽きない。

一通り見終わった印象は、氏の作品は、その戦略といい、印象といい、水墨画に近いということだ。線だけで勝負し、その濃淡、細さ、かすれ方、筆致から、独自の世界を形成する。そこには、ある種の共通項が存在する。いかにも無造作に書いたような絵であるが、おそらくこれを一つ仕上げるのには相当の時間を費やしているだろうと思われた。次に何処に筆を置くか、いずれにしても油絵のような上塗りは許されない書き方である。

法貴氏に聞いてみると、まさにその通りで、4段階くらいに分けて書くということであった。一緒に立ち話をしていた知り合いの画廊のオーナーが、「オートマティスム(自動筆記)じゃないの?」と聞いていたが、そうではないとのこと。とはいえ、書き始めると一気に書くこともあり、どこにたどり着くかが自分でも判らず、書かれた線によって別の構成が出来上がることもあるということだった。そもそも色の素材からして自分で作っているということで、ようやく納得できるものが出来上がるまでは2年くらいかかったということであった。

そのような繊細さを保ちつつ、しかし突然ポップなキャラクターが顔を出すというお茶目な作品もいくつかある。過去の作品には、むしろそのようなものが多い。また、丸い穴のようなものが風景のそこかしこに現れるものもある(一番左の写真)

話をしているうちに、私の知り合いのアーティスト達も、続々と集まってくる。予定より早くNYを離れなければならないことを説明したり世間話をしているうちに、気が付くと、ギャラリー内に相当の人数が入ってきている。大盛況だ。NYの画廊の人も真剣に見ている。一点素晴らしいものがあったが、いかんせん高い。。。エレベータに乗り込んだときにも、画廊関係者と思われる白人女性がちょっと高いねといっているのを耳にした。

辞去して外に出ると、相変わらずの雨。忙しくて昼飯を抜いていたことを思い出し、家路を急ぐ。







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