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2004年10月06日(水) 書評:平野啓一郎「日蝕」 (1998年下半期芥川賞受賞作)


1999年芥川賞受賞作「日蝕」は、異端審問を巡る典型的な物語を、擬古文体に似せた独自の文体で反復した作品と、しばしば要約される。そこに、泉鏡花の影響を感じることもできようし、近年の中世ブームと軌道を一にするテーマの取材のありかたを感じることもできよう。

物語の流れは比較的単純である。15世紀末のフランス、ドミニコ会の若き学僧が、学究の旅の途上、リヨン郊外の小さな村で錬金術師と出会い、錬金術の思想と神学との間で(思想的に)戸惑う。やがて、錬金術師と関係のある両性具有者が異端審問により魔女として焚刑に処せられる場に居合わせる。その魔女の処刑現場において、学僧は奇妙な神秘体験に触れるというプロット。物語の筋だけを大まかに辿れば、このようになるだろう。

このプロット自体は決して目新しいものではない。たとえば、泉鏡花の「草迷宮」のコンセプトにも似ているし、文学を離れれば、パトリック・ジュースキントの「香水」にも似ている。ただ、ここでは何に似ているか、と問題提起することは愚問の類に属するので避ける。

しかし、現代に生きる日本人が、15世紀末フランスを舞台とした物語を構築すること、それも極めて日本的な物語の構造と文体とで反復することが、どの程度の意味を持つのかという当然起こりうる疑問は、「日蝕」を正当に評価するうえで忘れてはならないことである。ここでいう「意味」とは、あくまで小説家にとって、先人により積み重ねられてきた「文学」に何を付け加えることができるのか、という観点の作品の意義とでもしておく。

いったい、何を目指して書かれた物語なのだろうか。正直なところ、読後しばらくしても、私は作者の真意を掴みかねている。一つだけ判るのは、独自の、ルビを多用した擬古文体に似せた文体により、物語の古さと文体とを一致させる試みは、少なくとも作者に意識されているだろうということである。ここで言う古さには二種類の意味がある。語られる事柄が古いということと、使い古されているということの二つである。擬古文体こそが古い事柄、または、既に反復されてきたテーマを語るに相応しい文体であるか、という疑問の検証のための実験の作品として捉えるならば、それなりに意義があると主張することもできるのかもしれない。

あるいは、こう考えるのはどうだろう。根本的なテクストを欠いた現代日本の状況において、それでも語り続けることができるのか、依拠すべきテキストを外部に求めることが正当かという実験として捉えることもできるかもしれない。そのための装置としては、自らのルーツに根ざさない過去への希求という姿勢を偽の擬古文体で表すことはある程度有効という議論もできよう。そして、異端審問という使い古されたテーマを、ここ日本で再現すること、その組み合わせの妙は、確かに感じられる。

これらが実験するに値するテーマなのかは、とりあえず不問にする。としても、何か踏み込みの浅い、表層的な印象を免れないのはなぜだろうか。終幕に近い部分で、本気で書いているのだとしたら、少々まずいと思われる部分もある。1時間で読みきれる程度の薄さであるし、その時間と文庫の値段に見合う内容ではある。最後までのめりこめないものの、それなりに面白い。先入観はとりあえず捨てて、読んでみるのもいいかもしれない。
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