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2004年09月29日(水) 書評:川上弘美「蛇を踏む」(1996年上半期芥川賞受賞作)


川上弘美の作品を読んでいると、自我と外界を隔てる薄い膜が溶かされていくような気がしてくる。これは、「溺レる」やその他の作品でも同じであるが、特に「蛇を踏む」では、余計にその側面が強調されている。向こう側とこちら側、善と悪、生と死といった二項対立の構図は、彼女の作品の中では心地よくほどけ、溶かされ、いっしょくたになって濃厚で甘いスープになってしまう。その誘いに身を委ねることができたならどれほどの快楽を味わえるだろうか。

ストーリーはシンプルである。道に落ちている蛇を踏んでしまった主人公。踏んでも踏んでも踏み切れない感じがする。蛇は「踏まれてしまったから仕方ありませんね」と言って去っていくが、家に帰ると母親のような女性が部屋にいる。そして憑かれる日々が始まる。蛇の誘惑は徐々に執拗になっていく。

泉鏡花の「草迷宮」を意識していると思われるところはいくつかある。異界との接点に意図せずに触れてしまうことから始まる点、奇妙な出来事が連続し、それに抗おうとする主人公(実のところ抗っているとはいえないのだが)。物語の構造は、一種典型的な巻き込まれ型である。

しかし、より根源的な部分で物事を曖昧にしてしまう川上弘美の作品は、そういった構造を問うことすらも無意味にしてしまう。向こう側からの誘惑があるから惹かれるのか、主人公の内部でそういった傾向があるから誘惑されるのか、それすらも考えることを止めてしまいたくなる。無性に眠いその筆致は、まどろみのなかの思考停止への誘いに良く似ている。その違いを女性という性に求めてしまうのはたやすいが、そればかりではあるまい。彼女の文章の端々から見える仕掛けの数々はかなりの割合でちゃんと機能しているし、恐ろしく計算されている。書くものの立場から言うと、あんな文章は普通書けないと思う。実に恐ろしい作品と言える。個人的には「溺レる」の方に軍配を上げたいが、それでも良作であることは否定できない。

そういえば、僕も幼いころに、白い蛇を踏んでしまったことがある。その蛇は可愛らしくも赤い舌をちろちろと出しながら怒って逃げていった。その後、その蛇に追いかけられて追い詰められたところまで覚えている。これは夢の中の話であるが、今も時折その蛇に追われている気がする。
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