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2003年11月13日(木) 掌編小説:窓を開ける


まどろみから醒める。暗い。部屋の照明を点けていないせいで、窓の外がやや明るく感じられるが、海辺にかかる低い雲ばかりが見えて暗いことには変わりない。落日には早すぎる。が、陽光が遮られて、まるで日暮れ時のように暗い。このコテージの海に面した側は天井から床までガラス窓だ。リビングの窓を開ける。涼しいというにはやや肌寒すぎる空気が流れ込む。近いはずの海の香りは一切感じられない。幾筋か、厚い雲を割って海上に光線が投げかけられているが、それもわずかだ。彼女はその身をソファに横たえている。まださほどの時間が経っていない。赤みがかった、だが白く細い喉がかすかに揺れ、胸が規則正しく上下しているのが見える。再び窓の向こうに目を向ける。湿った砂浜には、足跡のようなものがわずかに黒いしみを残している。人影は見えない。海流が冷たすぎるからだ。このあたりの海流は、夏でも生命の維持に必要な体温を奪うといわれている。橋から身を投げた者は、複雑な海流に呑まれ、冷えた海底から二度と浮かび上がってくることはない。

−何が見えるの。

不意に背後から異国語で声を掛けられる。僕は凝固する。

−何も見えない。何もない。ただ・・・

振り返らずに答える。そして言うべき言葉を見失い、言い淀む。彼女は瞼を閉じたままだろう。彼女の反応はない。答えの続きを待っているのかどうかさえ判らない。耳を澄ます。海鳥の声が聞こえてくる。が、その姿はない。かすかに霧笛のような音が響いている。が、それが本当に霧笛であるかどうか確かめるすべはない。霧は出ていない。コテージ内の空気が冷え始める。LPプレイヤーの回転が続いている。とうにレコードは終わっているが、いつ終わったのか判らない。音楽の終わりに気づかなかったのは彼女も同じだろう。心地よい擦過音がスピーカから低く聴こえている。彼女の反応はない。窓の向こうに何があるのかを聞いているのではない。現実に窓の向こうに存在するものと僕に見えるものとには隔たりがある。それは彼女も理解している。理解しているからこそ、僕らはここにいる。遠くを眺めているうちに、そこに何かが見つかるかもしれない。不自由な言葉による答えを必要としない何かが。僕はそれまでは沈黙を続けることに決める。







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