弁護士の素顔 写真,ギャラリー 小説,文学,司法試験合格体験記 法律関係リンク集 掲示板


2003年07月13日(日) パリ遊学日記:お気に入りカフェで/革命記念日前夜


天気の良い三連休の中日。昼下がり、住んでいるところにほど近いCafé de l’Almaに行く。洗練された、感じの良いカフェなので、時折ここに足を運ぶ。今日は、PCを持ち込んで紀行文を書く。ピエール・エルメのチョコレートケーキが美しい。


Pierre HermeのChocolate Cake

***

ランボーの生地であるCharleville(シャルルヴィル)に行く計画を立てている。情報が少ないので、調べものをしている。BNで購入したランボーの全集に載っている手紙を読む。ジョルジュ・イザンバール宛の手紙(1870年8月25日)で、彼はシャルルヴィルを口を極めて悪罵している。「あなたはもうシャルルヴィルに住んでいなくて幸せですね」「私の生まれ故郷(シャルルヴィル)は、田舎の小さな村々のなかでも極め付きのidioteです。」等。どんなところなのだろう。

***

ピエール・エルメのチョコレートケーキは美しいが、その美しさを保ちながら食べるのは難しい。ランボーが晩年の夏、マルセイユから妹イザベラに宛てた手紙を読みながら、そう思う(1890年7月20日)。彼は、その翌年の夏、脚の腫瘍のためマルセイユの病院で右脚を切断されている。



これから、quatorze juilletの前夜祭。のちほど追記。

***

追記1:

その後、自転車で、高級住宅街であるパッシーを経由してミラボー橋方面へ。「ラスト・タンゴ・イン・パリ」で見たような記憶のあるビル=アケム橋の半ばまで行き、「白鳥の小道」と名づけられた中州を通過して、自由の女神像を間近に見る。

ミラボー橋について多くを語る必要はあるまい。



Sous le pont Mirabeau coule la Seine.(ミラボー橋の下、セーヌは流れ)
Et nos amours (そして私たちの愛も流れる)
Faut-il qu'il m'en souvienne (思い出さなければならないのか)
La joie venait toujours apres la peine(いつだって哀しみの後に歓びが来たことを)

意外に、この詩を訳すのは難しい。第1文で切れていると見るべきか(アポリネールは文を切らないから)。その場合、第2文と第3文がつながる結果、「私たちの愛を思い出さなければならないのか」になり、愛が過去の思い出になってしまうことへの悔恨に満ちた倒置表現とも読める。しかし、やはりつながりが悪い。また、第3文のfalloirの意味も多義的で訳しにくい。というわけで、いまの感情に任せた意訳。正確性はひとまず措く。つくづく堀口大学は偉大な翻案者である。

***

追記2:

前夜祭で人が集まるところは、エッフェル塔の周辺とバスティーユ広場である。花火が上がると聞いていたので、エッフェル塔がよく見える橋の上に陣取って見ることに決める。陽が落ちると、次々にサーチライトが点灯し、夜空に幾筋もの光線が交差する。



しかし、遠くのブーローニュの森方面から、花火のような光が見えるものの、こちらでは一向に花火が上がらない。痺れを切らして塔の下の公園に行くと、相当混雑している。あちこちで爆竹を鳴らしている若者たちがいる。スピーカーから聞き取りにくいアナウンスが流れ、それによると今日は花火はなしで明日10時30分からであるということのようだった。残念に思いながらも、自転車でシャイヨー宮の前まで行き、ぐるっと回って帰宅。

その後、軽くシャワーを浴びてくつろいでいると、友人から連絡、バスティーユ広場まで行くことになった。時間はすでに0時45分。帰りの足を考えると、自転車で行くしかない。真夜中のBoulevard St.Germainをかなりの速さで疾走する。夜風が爽快である。驚くことに、わずか20分足らずで到着する。

バスティーユ広場は革命勃発の地であり、そのモニュメントの塔が建てられている。午前1時を過ぎると流石に人は少なくなっている。それでも、裏通りから激しいドラムと手拍子の音がするので行ってみると、若者たちが集まって踊り狂っている現場に出くわす。



参加しようとするが、余りのハイテンションについていけず。年を感じる。帰りは、深夜の誰も居ないルーブル美術館の広場などを通る。静まった空気に照明の消えたガラスのピラミッドが馴染む。真夜中のパリを自転車で出歩く機会はなかなかない。

明日は、早くから革命記念日パレードがある。戦車がシャンゼリゼ大通りを通過するのを是非目撃せねばなるまい。







[MAIL] [HOMEPAGE]