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2003年04月16日(水) 書評:J.D.サリンジャー「キャッチャー・イン・ザ・ライ」


村上春樹が訳したということで話題になっているJ.D.サリンジャー「キャッチャー・イン・ザ・ライ」読了。村上氏にとっては、必ず訳さなければならない本であったといえるし、それを知っている氏のファンにとっては読まなくてはならない訳といえる。

日本語に訳されたものでは、野崎氏の難解な名訳が知られている。あの訳のために挫折した日本人は多かろう。私も何度か挫折した。ほかにも挫折した友人を多数知っている。今回の村上氏の訳は野崎氏の訳より、読みやすさは格段に上である。およそ意味のない語尾や話し言葉として明らかに不自然な表現に悩まされることはなくなった。訳は原文の味を損ねないぎりぎりの範囲である。

訳における村上氏の自己主張は控えめである。それはすなわち名訳に近いと言ってもよいということである。なお、期待する向きの多いと思われる訳者による解説はサリンジャーの要望により付されなかった旨、巻末に記されている。その理由は、1964年以来途絶えたサリンジャーの筆が物語っているのかもしれない。一説には隠遁者も同然の生活を送っているという彼であるが、かつてはNYの出版社に自分の作品構成に文句をつけることもあったらしい。ほとんどの作家がそうであるように自分の作品に相当の思い入れがあるのであろう。その彼が自分の作品に対し、日本の人気作家による解説を付けることを無粋なことと考えることはありそうな話である。しかし、限定版に付されている小冊子や出版社のウェブサイトで訳者解説に近いものは読むことができるようである。私はそれらを読んでいないし、また、読む気もしないが。

さて、ここまでは訳に対する論評であり、以下が内容に関する論評である。読んでいて感じたことは、きわめて私的なことであるが、このような私的経験を通じてしか論評できない未熟さをあらかじめお詫びしたい。

今回読み通してみて、その文章の過剰さに呆れた。なかば笑ってしまったほどだ。そして、呆れてしまった自分に自己嫌悪を感じた。この自己嫌悪の感情を正当化しようと試みたが、うまくいかなかった。これが素直な感想である。

ある時を境に、私は自分の文章を削るようになった。何かのできごとがあって、そのせいでそのようなことを始めたわけではない。それは、時期が来れば訪れるべきことであったと思う。それから、無駄なもの、悪影響を与える可能性のあるもの、過剰なもの、を極力排除するようになった。たとえ有益であったとしても、全体として誤解を招くような不調和な表現を削除し、何度も推敲を重ねるようになった。これは、法律家としての当然の作法であるし、小説においても明晰な文章を書くためには必須のことであった。

かつては、考えることすべてが過剰で、しかし、精彩に富んでいた。自分の見ている世界を他の人間に伝えることが非常に意味のある行為に思われた。むしろ、それは義務であるようにさえ思われた。それは若者に特有の高揚感であった。だからこそ、文章を書くことでそれらを定着させようとしたのである。よりまともな文章を目指して「削ぎ落とし」をするようになり、その技術がようやく自分の物になってきたとき気が付いたのは、もはや何一つ語るべきことはないということであった。当然のことであるから説明を省略するが、文章の書き方は、そのまま思考様式にも影響を与える。思考様式は、既に変化を終えており、あれほど語る価値のあると(無根拠に)思われた世界への感受性が鈍くなっていたのである。

つまりは、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の主人公ホールデン・コールフィールドが激しく攻撃の対象とする「インチキ」で狡猾な大人に自分もなってしまったということであろう。(ホールデンは、父親である弁護士のインチキさに対してもほとんど生理的な嫌悪感を持つ。)

1951年の発表以来、この小説が長く各国の読者に読み継がれているのは、この小説が、個人の失ってしまった私的な領域に、深い部分で呼応する作用を持っているからであると思う。決して中学生・高校生の特権的な書物ではない。自分の中にホールデンと似た部分がかつてあり、そして苦い思い出とともにそれは封印され、さらに封印されたことすらも忘れ去られるという現象。それを成熟と呼ぼうが、何と呼ぼうが、いずれにしても正当化することはできないのである。








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