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2002年06月02日(日) 神楽坂小景


夕刻、長く伸びた自分の影を踏まなくて済むように、細い石畳の小道に入る。黒塀の道が続く。道は幾度か曲がり、幾度か階段を降りて、また細く続いている。二、三度曲がっているうちに、方角を見失う。この道はこれほど長かっただろうか。石畳の道はまだ先まで続いており、少々不安になる。おかっぱ頭の和服の少女とすれ違う。振りかえると、少女は角を曲がったのかもう見えない。履物の音だけが遠ざかる。今来た道のところどころにある料亭の盛り塩がやけに白く目に映る。ふと鼻先を煮物の匂いがかすめる。何処からか三味線らしき音が聞こえてくる。黒い猫があくびをしている。

はるか昔、見覚えたような光景が続く。知っている道に出た。確か、この先の道を曲がると、かつて漱石が「硝子戸の中」でも描いた待合の跡に抜けるはずである。その待合の名残を示す路地が目の前に現れるだろうと思った。苔のわずかに生えた石垣を曲がると、道が拓けた。

そこは、土の露出した巨大な空間だった。乾燥した土に汚れた、もとは白かったはずのビニールシートで囲われている。鉄パイプで組まれた足場が見える。工事現場であることを示す看板の中では、理想的な青空のもと、予定されているマンションが聳え立っていた。私は黙って踵を返し、今来た道を引き返すことにした。

再び音が聞こえてくる。三味線か、琴の音か私には判別がつかない。料亭の軒に、白い手拭いが何枚も干してある。観光客とおぼしき外国人男女の二人連れとすれ違う。この先は通行止めであるから引き返すべきと説得したい衝動に駆られるが、黙って俯いてやり過ごす。石畳は打ち水のためか所々湿っている。猫が何匹か、料亭の軒の上や屋根に集まって、こちらを見ていた。







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