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2002年02月26日(火) 「闇」三部作

戦争の夢ばかり見ている。

この1、2年とみに戦争の夢をみることが多くなった。もっとも、戦争の夢を見るのは今に始まったことではない。遡れる限りで最も古い記憶は、20年以上も前の夢だ。

なぜ、こんな夢を見るのか判らない。休日の睡眠が長すぎるのが障るのかもしれない。

戦争の種類は多彩だが、太平洋戦争と思しき舞台が多い。明らかに架空の(或いは今後起こる可能性のある)戦争と思われる夢もあるが、既に起きてしまった戦闘の只中にある場合が多い。遠い場所での戦争が登場人物の生活に影響を与えているだけの場合もある。

視点はさまざまだ。戦闘員、非戦闘員を問わない。そもそも登場人物の視点ではないこともある。共通していえるのは、ちりちりとした緊張感が常に伴うことだ。プロットは一貫しており、破綻はないように思える。

戦争の夢に直面するたび、緊張する。いつかは夢の世界と折り合いをつけて慣れていくのかもしれない。だが、まだ慣れない。ただ、一つどうしても解せないのは、その夢の中で、登場人物はいつ死ぬか判らないという恐怖を覚えているにもかかわらず、同時にこの上ない充実感を感じているらしいということだ。生きていることの喜びを感じていると言い換えても間違いではない。この喜びは、死なないことの安堵から来るものではないことを念の為付け加えておく。

それは、ベトナム戦争を題材とした開高健の小説、「輝ける闇」に通じるものがある。「輝ける闇」の主人公が随行している部隊がベトコンの奇襲を受け包囲されたとき、地面に伏せている主人公はマシンガンの銃弾が一列に耳の側を駆け抜けて行くのを目の当たりにしながら、目の前で展開する虫の営みをじっと見つめている。そのとき同時に主人公はこの上ない充実感を感じているのだ。

開高健が描く彼自身の投影としての主人公が、「闇」三部作の第2部「夏の闇」で死んだような日常を過ごすくだりも実感を伴って理解できる。彼は死んだような日常を生きているのではなく、日常を死んでいるのだ。三部作の最終巻となるべきだったが未完に終わった「花終わる闇」での枯渇し果てた日常の光景を目の当たりにすると、いつでも慄然となる。

彼の早逝を、暴飲暴食と紙一重の美食とワインとの連想から、美食・美酒を前に哲学を論じながら腕の血管を切開して自死を選んだローマの知識人の姿に重ねて、「緩慢な自殺」であると論じるのはたやすいが、その論理が粗暴なまでの単純さで構成されていることは指摘するまでもない。なにより開高健氏に失礼である。彼の心のどこかに暗闇(滅形と彼は呼ぶ)があり、それを埋めようとさまざまな試みをなしたことは疑いようがない事実であろう。一流であると誰もが認めるウィットとユーモアで「それ」を飼いならそうとしたこともまた事実である。しかし、結局のところ、彼はそのようなユーモアで滅形を回避することに失敗する。連戦連敗である。最初から敗れるのが判っていながら、彼は、ユーモアが無力化されてしまう領域にまで足を踏み入れざるを得なかったのだ。開高健氏は、その闇を認識しつつ横目でやり過ごすことをしないで最後まで誠実に向き合った(向き合わざるを得なかった)作家であるというべきであろう。「花終わる闇」の執筆に苦しむ彼の姿は、誠実な一人の作家の姿そのものである。

人に薦めるべき書物ではないようにも思うが、もっとも感銘を受けた小説10冊を挙げよ、といわれれば、この3部作のうち1冊が入るだろうと思う。どの1冊がふさわしいのかは思案のしどころではあるが。







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