2001年10月02日(火) |
掌編小説: コンビナートが好き、とその人は言った。 |
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コンビナートが好き、とその人は言った。
―コンビナートが好きなの。
僕は、黙って前を見たまま運転を続けていた。ワイパーが規則正しくフロントガラスの表面を撫でる音がする。視界は徐々に不鮮明となる。石油の備蓄基地の球体の列が、一瞬だけ浮かび上がる。
―どうして、って訊かないのね。
―わかるよ。
―え。
―判る気がする。僕も好きだ。
その人は遠くを見ていた。助手席のその人の首筋を盗み見ると、あきれるほど細く、そして白い。
球状の石油タンクがいくつもいくつもいくつも並んでいる。あるいはLPGタンクかもしれない。岸壁には人影が全く見えない。暗く濁った空と海の境界線はぼやけている。細かな靄がささくれ立った地表に滞留している。岸壁に向かう道はやがて閉ざされるだろう。
僕は黙って道を外れ、枯草の空き地へと車を入れる。石油タンクは、創造主が予めそこに据えた遺跡のように、聳え立っている。車を降りながら、薄緑色の球体が均等の間隔を保つのは容易ではない、という結論に、突然達する。過去から来た人間がコンビナートを目にしたとき、彼ははじめに驚異を感じるだろう。やがて、聖者の奇跡を目の当たりにしたような畏怖を。
その人も臙脂色のカーディガンを巻きつけて車を降りる。微細な霧のような針状の雨が僕らの肌を刺す。僕らはいつまでも水面が隔てている岸壁を、そして水面を眺めている。球体の列は少し歪んでそこにある。
―世界が終わったような気がしない?
水面は静かだ。海のはずなのに波一つない。緩やかに水面から立ち上る蒸気のような靄が、空気の流れがあることを示しているが、それも滞りがちだ。
―世界はとっくに終わってしまってるのに、誰もそれに気付かないの。コンビナートだけが残ってる。
僕は答えない。なぜなら、その問いは僕の中で既に反復されているからだ。そして、彼女の中でも繰り返された問いであったに違いないと確信する。その人の細い腕を軽くつかまえる。その人の視線は水面に向いたままだ。石油ガスタンクの表面の光沢が、偽善的に感じられる。その人の白い額に貼りついたひとすじの髪をそっと払う。その人の首筋は、あきれるほど細く、そして白い。球状の石油タンクがいくつもいくつもいくつも並んでいる。あるいはLPGタンクかもしれない。岸壁には人影が全く見えない。暗く濁った空と海の境界線はぼやけている。細かな靄がささくれ立った地表に滞留している。岸壁に向かう道はやがて閉ざされるだろう。僕はガソリンの残量を気にしながら、その人の冷たく濡れた頬にキスをする。
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