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2001年06月11日(月) 書評:アゴタ・クリストフ「悪童日記」を読む。


私は必要に迫られたときしか、著者のバックグラウンドとその著書を結び付けたりしないようにしている。その必要がある場合でも、頭の中で文章と背景とを結びつける動きを極力牽制する。それを強いられるときには、排除することもある。すなわち、読むのを止めてしまうのだ。

だが、この「悪童日記」は、歴史上の背景と照応させずには読むことが出来ない。

著者は、敢えて「大きな街」から「小さな街」に疎開してきた「ぼくら」という仮称を用いてこの物語を組み立てている。名前を奪われた役割だけの人々、容易に特定できるために、敢えて抽象化された二つの「街」。ぼくらを含む「小さな街」の人々に刻み込まれた「戦争」の影。悲惨さの中にあって楽天的でドライな「ぼくら」の行動。それでも、場所はハンガリーだし、「戦争」は第二次世界大戦で、連行される人々と、自分の仕事道具で殺される人々、お金で「従姉妹」の地位を買う登場人物からは、ホロコーストのイメージは拭い去れない。

「悪童日記」というのは邦題で、原題は“Le Grand Cahier”、すなわち大きなノートである。物語中に、このノートについて、2回の言及がある。1度目は、ノート等の文具を文房具店の店主に「要求」(要求という以外に彼らのあの行為を巧く表現できまい)しに行くシーン。2度目は、刑事に屋根裏を探られるシーン。ここでは、「全てが記してある大きなノート」との簡潔な記載しかない。ただ、その語り口は、そのノートの記載という設定から逸脱している。語り手が誰なのか、ということについて、著者の計算がなされているのかは不明である。後半にかけては破綻しているとも読めるからだ。もっともその破綻は気にならない。透徹する視線、乾いたユーモアは、語り手が誰であるかなど忘れさせる魅力を持っている。

もっとも面白いのは、「ぼくら」とは一体何か?という問いである。この問いは不可避である。不可避ではあるが、読者にはこの問いの答えは自明である。既に自明の事実として物語られているのだ。しかし、そこに潜むより深い意図は、一筋縄ではいかない。主体は双子の二人であるはずなのに、別個の主体であるという認識は無く、二人で一人の人間を構成している。この描写が秀逸だ。「一方が…する。もう一方が…する。」などの書き方をするのだが、ここでは、二人のうちどちらがある行為を行ったのか、全く明らかにされない。

問題は、なぜ、著者が二人で一人の人間を主体として選択したか、である。
フランツ・カフカの小説には、二人一組の「道化」の役割をする登場人物が頻繁に顔を出すことはよく知られている。村上春樹の小説では、双子又は精神的双子のイメージが繰り返される。このあたりは、蓮実重彦の「小説から遠く離れて」に詳しい。蓮実重彦は、双子のイメージが頻出すること、いわゆる定型の物語が、様々な現代の小説に繰り返されることを指摘し、そして、その謎をくくり出すが、それを分析する事を敢えてしない。

長くなったので、なぜ、この小説においてアゴタ・クリストフが二重化された主体をこの小説の主人公とすることを選択したのかという謎については、次回で解説することにしたい。







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