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2001年05月29日(火) 随想:五月祭/ジジェク「脆弱なる絶対」

先週末の日記より。

「久しぶりに本郷に向かった。文研の後輩の出店を冷やかしに行くためだ。

五月祭(「さつきさい」、ではない。「ごがつさい」と読む。)で、構内は賑っていた。一種の祝祭的雰囲気。だが、虚構の祝祭空間にしては、出来が悪い。祭られるべきものがないのは当然だが、全力で祭る演技をするほどのウィットすらない。いつものことだ。

極めて細々とながら、何とか続いている文学研究会の後輩たちと話す。
束の間のかみ合わない会話。もう8年になる。仕方あるまい。
アイスパインなるものを売りつけようと連呼する女子学生たちを見ていると、軽い眩暈を感じる。曇天の空。

私の長居すべき場所ではないことを再確認する(判っていたはずではなかったか?)。赤門を通過し、祝祭空間の呪縛から逃れ去る。

学生時代の行きつけの古本屋を再訪。
スラヴォイ・ジジェクの本を発見し、手に取る。
スロヴェニアのリュブリアナ大学の主席研究員である彼の著作は最近日本で翻訳され、精力的に紹介されている。ラカン論を彼独自の立場で編みなおした「幻想の感染」は、すでに持っているが読みきっていない。

青土社から上梓される彼の翻訳は戸田ツトムの装丁だ。ほとんど純粋に装丁に惹かれて購入。
「キリスト教の遺産と資本主義の超克」という思わず赤面しそうなサブタイトルが付けられているのが難点だ。というより、ジジェクをもっともらしく読む行為自体が、既に赤面すべき行為なのかもしれない。

日暮れ頃、舞い戻る。見ると、後輩達が、四角い缶を前に途方に暮れている。
聞くと、ホワイトガソリンであるという。綿飴の出店をしていたため、発電機用のガソリンを購入したが、余ってしまったらしいのだ。処分に困る。ガソリンスタンドで処理を頼むべきだ、とありきたりな助言をする。

文学とホワイトガソリンのイメージが、安田講堂のあるこの地で、一つの焦点を結んだが、いまは滑稽というしかない。

日、暮れて、帰る。平凡な一日。」







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