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| 2001年02月15日(木) |
批評:翻訳の方法について(1)(柴田元幸・村上春樹「翻訳夜話」) |
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深夜家の近くの本屋で、私の眼が妖しく光った。 この妖しい光が放たれるのは、一定の条件が満たされたときのみである。
この夜の私の行動を分析すると、
前提条件その�� この本は上梓されてから大分時間がたっているが、未だに本屋に平積みになっているところがあるところを見ると、ロングセラーになっているのだと思われる。
前提条件その�� 私はいま外国語に触れざるを得ない仕事を生業としており、日本語を英語に直す事の難しさ、また日本語にはない概念を日本語に直す事の難しさを毎日のように感じている。
前提条件その�� 柴田元幸はともかくとして(註:ともかくとしてというのは、大学で講義を受けた事があったように記憶しているが、その講義の内容を覚えていないばかりか、顔の特徴の一つとして思い出せないところを見るとおそらく授業は完全に寝飛ばしていたものと思われるため。長い註だ。)、村上春樹(註:筆者が彼の著書を読むたびに「チクショウ」「ヤラレタ」「ウーム」などとうなりながらも読むのをやめられない作家の一人である。ノルウェイの森は恥ずかしながら30回以上読んだ。実のところ30回以上は確実に繰り返し読んでいるのだが、カウント不能につきカット。)との対談形式による翻訳家の本格的な翻訳に関する議論である。
以上の条件が揃ってしまったため、私はやむなくこの本を手に取り、本屋のレジに突進した。
詳しい解説については、今は余り時間がないため、次回に譲ることにする(おいおい)。
が、この本は「買い」だ。最後の2編の短編小説の翻訳の読み比べがあるだけでも十分価値がある。米国文化と日本文化の違いなどという大上段に構えた議論はするつもりはないが、二人の肩の力が抜けた対談を読んでいるだけでも、なんとなく従来のいわゆる翻訳論が色あせて見えるような気がする。
お勧め。
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