2001年02月13日(火) |
書評:ホテル・ニューハンプシャー |
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ジョン・アーヴィング「ホテル・ニューハンプシャー」を読了。 避けては通れないと思いつつも、今まで引き延ばしてきた作品の一つだけに、かなりの期待と不安をもって読み始める。用意された構図が、余りにも典型的過ぎるがゆえに、少なからぬ不安を抱いていたが、4分の1近くまで読み進めると、俄然面白くなってきた。期待は裏切られなかった。
特に小説の手法として興味がひかれたのは、象徴としての物とコトバの使われ方である。
例えば、退去によって死の使者としての衣を纏わせられた飼い犬や、「みんな釘で打ち付けられている」という愛すべきアイオワ・ボブのコトバ、家族にとって不可避的としか言いようがない二重の意味を持つ熊の登場、これらは全て、共同体の内部において、一種の符牒として用いられる。時には、誰もが気づいていても口にすること自体がはばかられるという禁忌としてさえ用いられる。
物語の中心から退去させられたものが、シンボリックな意味合いを持つようになり、それがシンボルである事を誰もが共通して認識する世界。それが家族という最小単位の世界を構成する重要な側面であることを再認識させられる。
そして、なにより語られるべきなのは、その極めて強固な共同体である家族が、外部と接触する際に引き起こされる軋轢である。この小説の中では、この点が意外なほど単純に回避されている。一つは家族の拡大という方法で、一つは家族の縮小という方法で解決される。この小説の外部に出ることは試みられているにもかかわらず、現実的な感触のないものになっている。この点は、少し不満が残らないではなかった。
村上春樹が彼から強く影響を受けているのは間違いないが、村上春樹の場合、シンボルがシンボルとしてのみ用いられ、共有できないという立場から出発しているように思われる。にもかかわらず、共通して小説の外部に出ることを志向している。この違いを時間をかけて考えるのは、非常に楽しく、興味深い作業だ。
一押しの作品が、また、増えた。
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