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2001年02月07日(水) 批評:運動のためにする運動

最近、柄谷行人氏がNAM(New Associationist Movement)なる組織を立ち上げて東大の駒場祭で講演会を行ったとの報に接しました。この講演会に参加した私の知人が早速NAMに入会したとの話を聞き、思ったこと。

「運動のためにする運動は時代錯誤的である。」

ここでいう運動のためにする運動とは、目的が手段から乖離した運動を指します。
そして、誰もがとりあえず頷かざるを得ない命題をその目的に掲げ、手段を目的が正当化するという根拠に依存する運動は、極めて時代錯誤なのではないかという感想です。

NAMの原理の中に描かれた未来像及びそれを実践するためのプログラム自体は、極めて反資本主義的であり、誰もがとりあえず頷かざるを得ないものではないことは、明白だと思います。ただし、NAMの原理は、その運動の最終目的ではなく、NAMという運動自体のあり方を示したものに過ぎないと思います。NAM原理の中のどこにもその目的(目的と誤認させるような表現は多々あれど)は書いてありません。

この点、柄谷氏にいわせれば、NAMを立ち上げたもっとも主要な動機は、環境問題のようです(伝聞なので正確な表現は判りませんが)。「産業資本主義に対抗しなければならないのは、われわれがもっと豊かになるためではなく、環境問題とそれが将来もたらすであろう国家間の戦争を回避するためであって、そのために「持続可能な循環的な社会をグローバルに形成すること」が必要である」と倫理21(だったかな?)にあるそうです。目的は深刻な環境問題の早急な保護であり、その手段としてNAM原理の実践による現行体制の打破というプログラムが存在するのではないかと個人的には解釈しています。

私は環境の悪化とその早急な保護という極めてありふれたテーゼには、抗いがたい魅力を感じます。そして、上記のように、NAMの5条のプログラムを、かかる所期の目的を達成するための一つの運動の基本的なアウトラインと捉えた場合、私の主張は概略理解していただけると思います。「社会を良くしよう」等の漠然とした目的を最終目的に据えて、運動自体のあり方を追求することの危険性は改めて言及するまでもないですが、NAMについていえば、目的と手段の乖離が極めて容易に予想できますよね。運動のための運動が気味が悪いというのは、そういうことです。

将来ある程度は技術等の向上によって環境問題は改善され得るのかもしれないけれど、柄谷氏はその前に環境問題を発端として戦争が起きるだろうとしているわけです。環境問題が余りに深刻化して祖国を逃げ出し新天地を求めるという宇宙戦艦ヤマト的発想なのかも知れませんが、いずれにせよ「世界の終わりが来る!」とかそういうものとレベル的には同等です。破滅的思想の持ち主でない限り、もし死が差し迫ったものならばそれを避けようとすると思います。

以下は非常に個人的な見解なのですが、ここで説明しておくのがいいと思いますので、あえて頭の悪さを露呈しつつ論じようと思います。

「世界が破滅するから体制を変革する」あるいは「革命を志向する」などの運動は、要約してしまえば、特定の(団体のある一定層が是と考える)政策を実施しやすくするために社会全体を変えていこうという試みですよね。ところが、社会全体を変えた後実際に行われる具体的な政策自体の是非が問われることはほとんどないと思います。これは本末転倒で、実際には、もっとプラクティカルな(ある意味雑多な、思想よりも下等に位置付けられやすい)問題が、体制と現実とのギャップにより、それこそ無数に生じるはずです。体制が完成した暁にはそれが生じなくなると仮定する思想は、それ自体が極めて危険ではないかと思います。

なお悪い事に、これらの運動は、容易に「世界が破滅するから××(任意の宗教団体の売っている特産物)を売るのだ」「世界が破滅するからテロを起こして良いのだ」に転化してしまうように思いますし、20世紀はこれらの「目的が手段を正当化する」という信念が志を同じくしない市民を巻き込むという幾多もの実例を前に無力だった時代と位置付けられると思います。

で、NAMはどうかというと、非常に特殊で、「とってつけたような」印象の目的を持つ団体ですよね。でも、これは倫理21を読んでいる人がわかる事実です。私は一般の市民と同じく、柄谷の著作はほとんど触れていませんし(せいぜい「隠喩としての建築」とかあの救いがたい「反文学論」とかしか読んでませんが)、NAMの原理を理解できるわけでもないのですが、運動の目的が故意にか無意識的にか判りませんが書かれていませんよね。これだけを読んで、この団体が「最終的に何をしたいのか」ちゃんと理解できる人は、柄谷氏とテレパシーで交信でもしているのでしょうか。目的もなく、ただ、現行の体制の打破だけを目指す団体は、私には恐怖以外の何物でもありませんね。

もし運動自体を「目的」として、それ自体で自立的に活動するのだとしたら、当初の意図から逸脱する危険は非常に強いのではないかという素人的感想を強く思うのですが。

まあ、「運動」をお祭りと同じ感覚で遊ぶのであれば、より良いのでしょうけれど。柄谷氏及びその志を同じくする方々と遊べるのであれば、それは十分に楽しいかもしれません。私も、もし六〇年代に大学に居たら、アジりまくっていたでしょうから良くわかります。

長くなってしまいました。まずはこの辺で。







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