無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2007年02月10日(土) 『のだめ』エランドール賞/『裁判狂時代』(阿曽山大噴火)/『シャアへの鎮魂歌』(池田秀一)

 体調不良で、先週は予定していた映画や芝居をかなり見逃してしまっている。
今日からの三連休で、見損なっていた映画をハシゴして見て回ろうと思っていたのだが、今度はしげ。が「キツイ、出かけるのやだ」とゴネ出した。
 こちらも油断をするとまた咳が治まらなくなるので、養生のために一日ゆっくりすることにした。
 しかし、風呂に何度か入るが、左肩の凝りがいっこうに取れない。
 ふと般若心境を唱えてみたら、幾分肩が軽くなった。なんか憑いてたのかよ(苦笑)。


> エランドール賞:「のだめ」主演コンビが新人賞 「デスノ」の松山ケンイチも
> 06年、映画やドラマで活躍したプロデューサーや俳優、作品を表彰する「エランドール賞」の授賞式が8日開かれ、新人賞にドラマ「のだめカンタービレ」の主演コンビの上野樹里さん(20)と玉木宏さん(27)や、映画「デスノート」に出演した松山ケンイチさん(21)らが選ばれ、「のだめ…」は特別賞を受賞するなどマンガ原作の映像作品がヒットした06年を反映する結果となった。
> 同賞は、日本映画テレビプロデューサー協会が会員のアンケートを元に、新人賞、作品賞、特別賞などが選ばれる。二ノ宮知子さん原作のマンガをドラマ化した「のだめカンタービレ」は、「クラシック音楽界を舞台にドラマを成功させ、世にクラシックブームを巻き起こした」として特別賞に選ばれた。ヒロインのだめをコミカルに演じた上野さんは「舞台に出たいのでダンスを練習しています」と語り、ピアノに続く新たな挑戦に意欲を見せた。指揮者を目指す千秋役の玉木さんのプレゼンターとして、千秋の師匠である名指揮者のシュトレーゼマン役の竹中直人さんが登場。ドラマ同様のコミカルな雰囲気で受賞を祝った。
> また、「週刊少年ジャンプ」で連載され、大人気となったマンガ(大場つぐみ作、小畑健画)を映画化し、前後編で計600万人以上を動員する大ヒットを記録した「デスノート」で、主人公・夜神月のライバル・天才捜査官Lを好演した松山さんは、Lを主人公にしたスピンオフ作品の製作も決定、今後は「社会問題を扱った作品に出てみたい」と語った。
> 新人賞ではほかに、蒼井優さん(21)や綾瀬はるかさん(21)、劇団ひとりさん(30)が選ばれ、特撮ヒーローシリーズ「ウルトラマン」や映画「帝都物語」などを手掛け、06年に亡くなった実相寺昭雄監督らに特別賞が贈られた。

 「世にクラシックブームを巻き起こした」って、そうなんですか?(笑) 

 「ブーム」という言葉の胡散臭さにはかなり食傷しているので、せいぜい「あ、『のだめ』のCD」が出てる。買ってみよーっと」なんて言ってCDとやらにがちょっと売れた、程度のことだろうと解釈しておきたい。
 にわかファンであろうとなんだろうと、クラシックに対する偏見がマンガやドラマを通じて薄れていくのならば決して悪いことではない、というご意見もあるだろうが、世の中、本気でオタク属性を持っている人間なんて、さほど多くはないのである。寂しさをかこっている昔からのクラシックファン諸兄、あまり期待はしないように(苦笑)。

 『のだめ』の受賞にイヤゴトを言いたいわけではない。
 上野樹里は『出口のない海』や『笑う大天使』より、よっぽどいい仕事を『のだめ』でしていたと思う。実際にピアノも弾けて、かなり吹き替え無しで撮影にも臨んだというし、もしもコンサート中の着ぐるみの中にまで入っていたとしたら、これはもう脱帽ものだ(多分別人だろうけれど)。
 コンサートシーンは千秋の余計な解説を除けば出色の出来だった(あの千秋のモノローグは音が聞こえないマンガだからこそ必要なので、映像の場合は不用どころか邪魔ですらある)。正直、竹中直人さえ出ていなければ、DVDボックスを買いたいほどだ(竹中直人本人を嫌いなわけではない)。

 けれども、どうしてもドラマとしての欠点の多さに目が行ってしまい、「この程度のドラマで受賞? ほかにも出来のいいドラマはいくらでもあっただろう、『アンフェア』は、『時効警察』は、『のだめ』より劣るのか?」と、どうしても不自然さを感じてしまうのである。

 そもそもがこのエランドール賞、記事にもある通り、「日本映画テレビプロデューサー協会」の会員による選出である。プロデューサーと一般の観客と、映画やドラマに対する視点が違うのは自明の通り。要するにドラマとしての完成度やオリジナリティーよりも、「流行にうまくハマッてヒットした」という事実の方が受賞理由としてより考慮されることになるのだろう。
 下世話な表現になるが、「売れてナンボ」の感覚の方々が選出している賞なのである。それがいけないということではなくて、我々は「ナントカ賞」と聞くと、ついその「内容」が評価されたと思いがちなのだが、これはそういう賞とはたいして関係のない賞なのだと理解する必要があるだろう、ということである。
 「クラシック音楽界を舞台にドラマを成功させ、世にクラシックブームを巻き起こした」っていうのは、つまりは「現象」を評価しているだけのことで、ドラマの中身については触れていないのだから。


『裁判狂時代 喜劇の法廷★傍聴記』(阿曽山大噴火/河出文庫)

> 世にもおかしな仰天法廷劇の数々! 大川興業所属「日本一の裁判傍聴マニア」が信じられない珍妙奇天烈な爆笑法廷を大公開! 石原裕次郎の弟を自称する窃盗犯や極刑を望む痴漢など、報道のリアルな裏側。

 『キネマ旬報』の映画『それでもボクはやってない』特集号に、「この映画の描写はホンモノ」と太鼓判を押していたのが、著者の阿曽山大噴火氏である(「あそざん」の「そ」の字が「蘇」じゃないのね)。
 寡聞にして昨今の「傍聴ブーム」(そんなのがあったのかい)の火付け役であることも、大川興業の人であることも知らなかったのだが、やや「斜め読み」な視点に違和感は感じるものの、日本の裁判の珍妙さを知るには格好のテキストであるように思う。

 かつて私自身も知人が起こした事件に関連して、裁判の証人に立ったことがある。
 そのとき実感したことは、あそこは真実を解き明かす場でも何でもなく、有罪か無罪か、そのどちらかを「勝ち取る」場なのだということだ。
 ちょいとアナタ、証人席に立って、被告人の弁護を行っていたら、裁判官から(検察官からではないよ)「どうしてこんな被告人を弁護できるのか」みたいに突っ込まれてごらんなさいな。「わしゃ、そのためにここに来とるんじゃい!」と怒鳴りたくもなりますよ。いえ、本当に怒鳴ったりはしてませんけどね。
 別に理想主義者ぶるつもりはないが、裁判というものにどこか白々しいものを覚えてしまって以来、その手の話題には触れたくないというのが正直な気持ちであったのだ。

 それがどうして本書を手にする気になったかと言うと、最近、偶然その裁判の時の関係者に道端で逢うことがあって、あの裁判が決してムダではなかったのだということが確認でき、少し気が安らいできたという事情が作用している。『それでもボクはやってない』を冷静に見られたのもそのおかげだろう。

 宣伝の惹句にもある通り、これは著者がこの七、八年の間に傍聴してきた裁判のおもしろレポートである。「裁判という神聖なものを茶化すとは何事か」というマジメな方の謗りがあるかもしれないが、実際に傍聴経験を一度でもして見れば分かることだ。裁判は神聖なものでも真面目なものでも何でもない。
 いや、当事者たちはいたって真剣なのだろう。しかし事件というものはいずれも日常の掛け金をどこかで掛け違えてしまったために起きてしまう「非日常の世界」である。フツーの感覚がどこかで捻じ曲がり歪んでズレてしまっていることは否めない。そこに関わってしまえば、たとえ常識をもって対処しようとしても、弁護士も検察官も裁判官も、みなどこかでズレちゃってしまうのは仕方のないことなのだ。

 エンコーの相手に暴力を振るっていったん払ったお金を奪い返した「強盗致傷」の事件。検察官が事件の認定よりも、「常習犯」である被告人に、「何人と会ったことあるの?」「具体的にはどうやるの?」「射精はしたの?」とか、興味本位の質問に偏っちゃってしまって話にならない。検察官もオトコなんだねえ、というよりは、これじゃ屋台の酔客である。
 かと思うと、思いっきり熱血漢な検察官も。満員電車で犯行を繰り返した前科二犯の痴漢の裁判で、モゴモゴ言い訳をする被告人に対して、「被害者の心情を考えんのか!」「病気だろう、専門家に見てもらえ!」「裁判官の前では反省してるって、全然してないじゃないか!」と完全にキレている。圧倒された被告人が「極刑にしてください」。いいなあ、痴漢三回なら死刑。犯人自身がそう望んだからそうしましたって判例ができれば、痴漢も減ると思うんだけど。

 ほかにも被告人を全然弁護しないで検察官と一緒になって責め苛む弁護士とか、傍聴人をやたら注意する裁判官とか。
 本書で扱っている裁判は、そんな、新聞の片隅にも載らないような本当に些細な事件ばかりだけれども、いくつかは超有名どころの裁判レポートも紹介されている。
 一つは「法の華」事件。あの「最高ですかあ?」で有名になった福永法源の詐欺事件だ。被告人が「本なんて一冊も書いてない」と、そこでは正直に語るけれども、信仰上の件に関しては「私には天声が聞こえる」と主張して曲げようとしない。そこで裁判官が突っ込む。「なんて声が聞こえたの?」
 被告人の答え。「法源誕生だよ」。
 裁判官、「日本語で? お釈迦様はインド人だけど」。
 被告人、「い、いやあ、どこの出身かは知りませんけど」。
 ……笑っちゃうと言うかあきれちゃうと言うか、この程度の言い訳も考え付いてなかったんだねえ。「意識を感じるので、それを私が日本語に翻訳してます」くらい言えよってねー。
 もう一つの重大事件は、オウム真理教事件だけれども、その醍醐味は本書を読んで味わっていただきたい。

 しかしあれだ、裁判員制度が2009年度から実施されようと言うのに、このクニの愚鈍で卑怯で無責任な一般大衆の6割以上が「裁判員に選ばれたくない」とかほざいているのだそうだ。小学生かお前らは。シゴトと言うのはやんなきゃならないときには四の五の言わずにやんなきゃならないんだから、今のうちにちょこちょこ裁判を傍聴しといた方がいいと思うんだけど。
 え? 裁判って誰でも傍聴できるのかって?
 そうだよ!! ……。


『シャアへの鎮魂歌 わが青春の赤い彗星 A Requiem For Char Aznable』(池田秀一/ワニブックス)

> 人気アニメ「機動戦士ガンダム」でシャア・アズナブルを演じる声優・池田秀一の初の自伝! まるでドラマのようなシャアとの運命的な出会いから、池田さんから見たシャアの魅力、アムロ役・古谷徹さんら仲間たちとの知られざるエピソード、そして今年8月に死去したブライト・ノア役・鈴置洋孝さんへの別れの言葉……。涙なしでは読めない、永遠のヒーロー・シャアと共に生きたその27年間を余すところなくつづります。

 池田秀一の自伝というよりは、「シャア・アズナブル」の自伝と言っていいくらいに、シャアに関する思い入れが全ページに渡って書き連ねられている印象。
確かに現在の視点で俳優・池田秀一を鑑みるならば当然のことなのだろうが、子役時代の『路傍の石』や『次郎物語』の池田秀一も印象深い身にしてみれば、いささかの物足りなさ、わびしさを感じるのも事実である。石原裕次郎とのエピソードなどはもっと詳しく書いてほしかったところだ。

 けれども、いかに惹句でそのように謳われていようとも、本書は事実において池田秀一の「自伝」ではない。「はじめに」で著者自身が語っている通り、本書執筆の動機は、『機動戦士Zガンダム』の映画化をきっかけにして、「僕とシャアが一緒に歩んで来た道をお見せすることで、今、何かを生み出そうとしている次の世代の人たちの手助けになるのであれば」という思いが募ってきたから、ということなのだ。
 従って、「池田秀一はどうして戸田恵子と離婚して玉川紗己子と結婚したのか」とか、芸能雑誌的な興味で本書を読んだとしてもその結果は徒労に終わる。もっとも、たいていのアニメファンは、そういう「二次元のイメージを破壊すること」に対しては生理的に拒否反応を示すだろうから、そのあたりの事情について書かれなくて正解だったと思う。良くも悪くもアニメファンはピュアな人が多い。

 そういったアニメファンの「ピュアさ」に対して、著者が気遣っているような描写も本書には散見する。いささか苦笑してしまったのは、「シャアのイメージを崩してはいけない」ために、できるだけファンの前に姿を見せない、どうしてもファンの前に立たなければいけないときには「自分がシャアであること」を意識して、サインなどもしない、といった態度を取る、という件だ。
 いやまあ、確かに二次元キャラクターと実際の声優との間にイメージのギャップがあることはままあることではあるけれども、そこでファンが「幻滅」してしまうのは、声優本人に責任があることではなく、ファンの幼児性の方に問題があるのではないか。それに池田さんはそこまで気を遣わなければならないほどに外見上、シャアのイメージを崩してしまうような人ではないと思うのだけれど。
 声優さんも大変だ(苦笑)。

 当たり前の話であるが、役者がそのキャラクターを演じるときには、その役になりきるべく、最大の努力をする。池田さんもやはり『ガンダム』の第一シリーズでシャアその人にならんと一つ一つのセリフに心を込めている。
 セリフとは物語の登場人物間の「関係性」によって成り立つものであるから、そこを捉え間違えると、画面とセリフとの間に乖離が起きてしまう。たとえば、「友達の会話に聞こえない」「兄弟の会話に聞こえない」という事態が生じてしまうわけだ。案外そのことを考えていない役者はいるもので、そこが演技というものの難しいところだ。
 その「関係性」のことを池田さんは「温度の違うキャラクターの対比」と表現している。
 例えば、第12話『ジオンの脅威』で、左遷されたシャアがとあるパブで酒を飲んでいるシーンがある。男が一人、シャアに近づいてきて酒を奢ろうとするときの、お馴染みのあの会話だが、池田さんは「シャアは相手の放つ『匂い(雰囲気)』だけで相手をジオンの間諜だと見破ります。この会話のみで、シャアと相手の立ち位置が逆転し、シャアは優位に立ちます」と分析する。
 実際、相手の男は、最初は「それは私に奢らせてもらおう、いいかね?」とやや高圧的だったのが、シャアに正体を見破られた途端に、「さすがですな、少佐」と口調もですます体に、シャアを敬服していることが明らかな態度に変わっているのだ。

 これだけの分析をしているから、シャアというキャラクターに対しての池田さんの思い入れには説得力が生まれる。『Zガンダム』以降のシャアに対して、「シャアってこんなに子供だったのか?」と違和感を覚えたというのは、当時のファンもまた同様だったと思う。
 20年ぶりに『Z』の劇場版が作られ、シャアが「大人のキャラクター」としてリライトされるに及んで、ようやく池田さんの心から「シコリが取れた」というのは、演技というものの本質を考える上で極めて重要なことだと思う。
 劇場版リメイクにあたって、このあたりの分析をきちんと行った批評を雑誌でもウェブでもついぞ見かけなかったが、出演者に説明してもらって、「ああそうか」とうなづくというのは、ファンとして忸怩たるものを感じないではいられない。

 シャアのセリフの分析は、本書の随所に、終章に至るまで挿入されている。イントーネーション、言葉の区切り方次第でキャラクターの心情がどのように変化するかを、具体例を挙げて示しながら、池田さんは声優の演技について以下のように総括する。
 「役作りをしながら状況に合わせてセリフを言うことって、実は非常に難しいことなんですが、僕はそのセリフと芝居を音符だと捉えています」
 「僕たちは声の芝居を受け持つのですから、僕たちがもう少しキャラクターを深く捉えることによって、そのキャラクターが正義の味方だろうが悪役だろうが、ファンから支持を受けるキャラクターへと成長する可能性があるのであれば、僕たち声優は芝居というものを真摯に受け止めるのが正しい姿勢でしょう」
 本書を声優のアイドル人気に乗っかったキワモノ本だと思って油断していた人がいたら、これらの言葉に刮目していただきたいところである。

 本書には声優同士のあたたかい交情なども描かれている。
 亡くなった井上瑶さん、鈴置洋孝さんへの思いを綴った件などは涙無しには読めない。トミノ御大の例の「トミノ節」を紹介した裏話なども楽しい。
 けれども、私が一番面白く読んだのは、こういった詳細なセリフの分析が、分かりやすい表現で書かれていたことだった。

 何だかまた『Zガンダム』が見たくなってきた。
 劇場版三部作のDVDを見返してみようか。鈴置さん、井上さんへの追悼の意も込めて。

2005年02月10日(木) 宮崎駿監督、栄誉金獅子賞/映画『きみに読む物語』ほか
2004年02月10日(火) 入院日記9/お薬の正しい飲み方
2003年02月10日(月) 夢見が悪い日ってあるよね/映画『金髪の草原』/『うさぎとくらたまのホストクラブなび』(中村うさぎ・倉田真由美)ほか
2002年02月10日(日) 男が女に暴力を振るうワケ/『仮面ライダー龍騎』第02話「巨大クモ逆襲」/アニメ『サイボーグ009』第17話「決戦」ほか
2001年02月10日(土) 「html」って、はいぱあ・てくのろじい・まきしまむ・ろぽ……じゃないよな/映画『狗神』ほか



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