無責任賛歌
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| 2006年01月21日(土) |
楽しかったり腹立ったり/映画『マザー・テレサ』/『まなびや三人吉三』3巻(山田南平) |
『ウルトラマンマックス』第30話「勇気を胸に」進化怪獣ラゴラスエヴォ登場。 ショーンが怪獣攻撃の新兵器開発に悩むあたりは、『ウルトラマン』第37話「小さな英雄」で、イデが「ウルトラマンがいれば科学特捜隊は必要ないのではないか?」と疑問を呈したエピソードを彷彿とさせる。今回はそれにカイトの「ウルトラマンマックスはなぜ自分を選んだのか?」という疑問も同時に投げかけられることで、ドラマがより重層的になっている。 答えはやっぱり「我々地球人が勇気を出して自らこの星を守らなければならないのだ」ということになってしまうのだが、十年一日で深みがないと批判的に受け取るか、これは普遍的な真実であると好意的に解釈するか、賛否は分かれそうな気がする。でも特撮ドラマを安易に現実社会に比定して考えるのは危険な面もあるからねえ。敵が怪獣や宇宙人なら単純明快な正義を振りかざしたって構わないけれど、現実の人間の敵はやっぱり人間なんだからね。 「守るべき者を守るために戦う」というスローガンは「専守防衛」を標榜する戦後民主主義の下では戦う口実としては実に「座りのいい」発言なので、特撮、アニメを含めてフィクション世界ではイヤになるほど繰り返されてきたわけだが、まあ現実の戦争はそんなキレイゴトではすまない規模にまで拡大してしまっている。だから、そういった視点で見るなら、確かに『マックス』は「所詮は子供だまし」と言われてしまいかねないのだが、こういうジュブナイルは「生きるための基本姿勢」だけを示すことができればそれでよいと思うんだけど、どうだろうかね。 この世界の怪獣がどこからやってくるのか分からないけれども、仮に前話の通り、「人間の怪獣を想像する力が怪獣を生み出している」ということであるなら、「怪獣を想像しやすい性格の人間を事前に狩り出せ」という、『デビルマン』の悪魔特捜隊みたいな発想の方が「現実的」と見なされかねないのだ。
朝から、天神のソラリアプラザ2に一人で映画『マザー・テレサ』を見に行く。 しげも誘ったのだが、「興味ない」ということなので、もう無理には誘わない。布団にくるまったまま朝寝をしているしげに「行ってくる」と声をかけると、「いつごろ帰ってくる?」と寝ぼけ声で聞き返されるが無視する。いちいちしげを気遣うのにも私はもう疲れてしまっている。しげがただ聞いてるだけで、それまでに食事の準備をするとかそんなことを考えているわけではないということも分かっているのだ。 心を入れ替えて家事もする、と言っていたのに、また朝寝をしていることからも、所詮こいつはマトモな生き方ができる人間ではないということが分かる。声を聞くだけでも腹が立ってくるので、ほったらかしてさっさと出ていく 天神まで出ても、ソラリアプラザには本屋がないし、上映される映画も他のシネコンで見られるものばかりなので、滅多に足は踏み入れないのだが、三つの映画館のうち2だけは「二番館」なので、見損なっていた映画をたまに見に行くことがある。 これも若い人には説明が必要だが、「二番館」とは、封切り映画を、時期を置いて再映する映画館のことで、「名画座」という言い方もしていた。かつては全国のあちこちにあったのだが、レンタルビデオ屋や衛星放送の普及とともに殆ど潰れてしまっている。福岡に唯一残っているのがこのソラリアシネマ2である。観客もだいたい、私のような客や、安いからいっぺん見てるけどもう一度見ようかという客が多い。
『マザー・テレサ』自体は、映画としては全体的に静かな印象で、そんなに大きなドラマがあるわけではない。カルカッタの貧困地域で慈善活動を続けたマザー・テレサの実際の「苦労」は多分フツーの人間には計り知れないものがあるのだろうが、何しろ2時間の映画であるから、妨害があったりスキャンダルにまみれたりしても、すぐに救済の手が現れたり、誤解が解けたりするのである。 勘違いされては困るのだが、私はマザー・テレサの業績がたいしたことがないと言いたいわけではない。映画の上ではたいした苦労をしていないように「見えてしまう」という事実を指摘したいのである。 もっともこれはどの伝記映画にでもつきまとう問題であるので、追求するのは多少酷かとは思う。けれども、この弊を排するために、従来の伝記映画ではその人物のごく一時期のみを切り取る形でドラマとしての「重み」を増すなど、演出上の工夫を施すものである。残念ながらこの映画にはそういう工夫に乏しい点がまま見受けられる。 例えば、「平和の村」建設資金が足りなくて、マザー・テレサはある病院長から献金を受けるのだが、こいつがまたいかにも胡散臭い悪人面で、こんなやつに騙されてしまうとは、いくら善人だと言っても、マサー・テレサもその周囲の人々も、みんなただの馬鹿ではないのかという気がしてくるのである。人物造形が『Ns‘あおい』レベルじゃ困るなあ。もちろん、本物の献金者はもっと「したたかな」人物だったのだろう。キャラクターを際立たせることは実在の人物を扱う上では細心の注意を必要とするのだ。 それでもこの映画に退屈を覚えないのは、やはりオリビア・ハッセーの入魂の演技があったればこそである。クリスチャンという立場を越えて、ヒンズー教徒もイスラム教徒も救おうとするその姿勢、一歩間違えばこれも嘘臭くなりかねない行為を、ハッセーは極めて抑制された演技で表現する。彼女はほとんど笑わない。トラブルが次から次へと彼女を見舞うためでもあるが、病院の患者たちに接する場合でも、彼女の表情は極めて固い。では彼女から優しさとか慈愛というものを感じないかと言えば、そんなことはなく、それは何よりその瞳にこそ湛えられているのだ。 ホスピスを設立する許可を得るために、マザー・テレサがバチカンから来た神父に向かって「神が私にお命じになったのです。神のペンとなれと」と伝える場面がある。神は本当にマザー・テレサに語りかけたのか、それともこれも方便と割り切ってあえて嘘を付いたのか、真実は分からない。しかし映画は神の降臨を具体的に描くことはしないし、何よりハッセーの演技がどちらの解釈も「拒絶」している。彼女が演じてみせたのは、あくまでマザー・テレサの「強い意志」なのだ。 だから彼女からは「純粋まっすぐくん」や「カルト宗教家」の持つどこか「逝っちゃってる」歪んだ瞳の輝きもないし、偽善的な態度も見られない。マザー・テレサを演じる上で、これは最大級に重要なことではないだろうか。
帰りに博多駅で駅弁を買う。昨日、駅弁を食べ損なったので、リベンジである。 目立つところに何軒もあるのに、どうしてしげは弁当屋を見つけられなかったのだろうと訝しく思ったが、駅弁屋の看板を見て、ああそうか、と得心した。博多駅の駅弁屋、どこも「驛辨當」と旧字体で書いてあるのだ。これじゃ探すのに苦労するのも分からないではない。 この漢字の字体改定はやはり戦後GHQの指導の下になされているのだから、アメリカの作った憲法はイカンとか、今のゆとり教育はおかしいとかほざいている連中は、新字体を排して旧字体に戻せ、という運動も当然しなければ筋は通らないのだが、そんな話は全然聞かないよねえ。丸谷才一を見習ったらどうだ。 弁当は穴子めしと恵比寿弁当。しげに事前に連絡を入れて「弁当は要るか?」と聞いたら、「要る」と即答。やっぱり昼飯の用意を何もしていなかったのである。 そのあと、「GAMERS」と「紀伊国屋」でマンガの新刊を物色して帰る。
夕方、しげが買い物に行くと言うので、便乗してヤマダ電器に寄ってもらう。 DVD『仮面ライダー響鬼』の6巻と劇場版、及びDVD-RWを40本購入。ついでに『機動戦士Zガンダム�供[�人たち』を予約注文。 博多駅の紀伊国屋は、仕事帰りに寄れるので便利はいいのだが、如何せん割引率が10%、ヤマダは20%である。ネット注文も、サイトによっては25%引きなんてのもあるから、だんだん紀伊国屋でDVDを買う率が低くなってきた。天神ベストのLIMBにはもう殆ど行くことがない。同じ博多駅近くでもヨドバシという強敵がいるのだから、紀伊国屋、いったん廃止したポイントカードを復活させるくらいの措置を取らないとサービス競争に負けちゃうと思う。顔馴染みになってるから、少し頑張ってもらいたいんだが。
そのあとマルキョウで買い物をするが、しげは出来合いの惣菜ばかりを買っていて、料理のための具材を一向に買おうとしない。それで「おまえはいったいいつになったら食事を作る気になるのか?」と口論になる。私にだけならともかく、今は父の食事もしげはパックに入れて店まで持っていっているのである。野菜中心に買っているとは言え、出来合いのものは味付けが濃いものばかりで、カロリーがオーバーするのは目に見えているのだ。もちろんそのことは事前にしげにも言っているのに、わざと無視しているのである。人を舐めるのも大概にしろ、と怒りではらわたが煮えくり返りそうになる。 入院中に糖尿病食の調理の本を何冊も買って渡していたのだが、問い詰めてみると、しげはろくに目も通していないことが分かった。私ももう若くはない。気力、体力は年々衰えている。入院の回数も年取るごとに頻繁になって来ているので、食事にこんな手抜きをされるようなら、もうしげとは一緒に暮らせない。 もう何度もしげには別居を通告しているのだが、そのたびにしげは泣いて謝って、「真面目に働くし家事もするから」と口にする。そしてその直後、もう約束を破って家事をサボる。どうしてそんな嘘をつくのか問い詰めても黙って答えない。今日もまた同じ展開になって、私は疲れ果ててもう怒鳴るのをやめた。誰かこいつを引き取ってくれるやつがいれば熨斗つけて渡してやるのだが、こいつの正体はこの日記でも縷々書き連ねているし、ひと目見れば「こいつはダメ人間だ」と分かってしまうので知り合い連中は誰も相手にはしないだろう。 昨年、北九州のヨシヒト嬢の御宅にお邪魔していたときに、しげは彼女のお母さんから、私に感謝しなきゃいけないよ、と噛んで含むように言い聞かされていたのだが、その意味も、しげにはチンプンカンプンなのだろう。ストレスから私が早死にするのは間近いかもしれない。 本当なら今晩はしげと一緒に父の店にも行って、そのあと映画でも見ようかと話をしていたのだが、ぶち壊しになった。たかが料理を作るだけのことがどうしてできないのか、私には分からない。
しげは今日も一応は父の店に片付けを手伝いに行った。感心なようだが、私に追い出されたくないためのパフォーマンスに過ぎないのは先刻承知である。案の定、帰宅しても明日の料理の準備は何もしようとしない。 しげから「父ちゃんから貰った」と言って渡されたのは、また一戸建ての売り屋の広告チラシである。父もボケが進行しているし、この三人が普通に同居できるとは私には思えないのだが、なんかまだ父は「仲良し家族」というユメを見ているのだ。「結局は血だよ」とか言ってるんだが、しげとは何の血の繋がりもないし、以前は「お前のヨメは心がズルイな」と怒っていたのに、そこんとこも何かもうボケてて勘違いするようになっているのだろう。 なんでこう、私の周りにはファンタジーな人とかピュアな人ばかりがタムロするのかねえ(タメイキ)。 「お前がそうなんだろう」と突っ込みたい御仁もおられるかもしれないが、「そういうお前が」式の幼稚な反論しかできない糞馬鹿を相手にするほどヒマでもないので、そういう連中は自分のヘソ噛んで死んでてください。 ココロが荒んでるのである。
夜、『エンタの神様』を漫然と見る。 しかしコントをやるやつが少なくなって、どいつもこいつも「あるあるネタ」の発展系だけでやっていこうってのが多すぎて鼻に付く。その中でオリエンタルラジオが頭一つ抜きん出たのは、やっぱりあのキレのいい動きにあるのは間違いのないところだろう。単にトロイだけなのに何か勘違いされて受けているだいたひかると比べると、そのセンスのよさは段違いにレベルが上なのである。ネタが既に「武勇伝」とは何の関係もなくなって締まっているのがちょっと気になるところだが。 恐ろしいくらいに間が悪くてつまらないアンガールズが「天然」というあの雰囲気だけで受けているというのは、客の質もここまで落ち たかと嘆息するしかない。
マンガ、山田南平『まなびや三人吉三』3巻(白泉社)。 美術室の心霊現象を解決する依頼を受けた怪盗三人吉三。和尚吉三こと○○○○(一巻を読んでいない人のために、特に名を秘す)はどういうわけか、この事件の解決を三代目お嬢吉三こと八百屋七々子(通称「やぁや」)一人に任せようとする。調査の過程でやぁやは、美術部員の吉田桜が、かつて自宅の家事で従兄が彼女を助けるために死んでいたことを知る……。 依頼者の桜の真意が「心理現象の真相を暴いて」ではなくて、「幽霊に会わせて」であったと判明したあたりから、さあ、この実現できるはずもない依頼にどう結末を付けるつもりかなと思っていたら、最後でちょっと「インチキ」をしたので、いささか苦笑。 本格ミステリジャないんだから、これくらいは文句を付けることではないのだけれど、大仰に「幽霊騒動がトリックなら、吉田の依頼は果たせない」なんてセリフが出てくるものだから、これにどう合理的な結末をつけるのだろうかとちょっと期待をしすぎてしまったのである。今回はライバルの弁天小僧&南郷力丸もいまいち暗躍し損なっているし、ちょっとばかし物足りなかった。 それにしても三代目お嬢吉三に変身した時のやぁやは、ちんちくりんな本体(笑)と違って、エロ可愛くて(ちょっと流行語を使ってみました)ええわ。まなびやから外に出て、もっと広い舞台でその「怪盗」ぶりを見てみたいものだけれど、そうなると中身がタイトルから外れちゃうし、難しいかもね。
2005年01月21日(金) やっと週末/映画『ネバーランド』ほか 2003年01月21日(火) 「アニメ」ってだけで通じるアメリカ人、どれだけいるんだ/『モーツァルトは子守唄を歌わない』4巻(完結/森雅裕・有栖川るい)ほか 2002年01月21日(月) 妻の寝相と丈夫な膀胱/『夜と星の向こう』(今市子)ほか 2001年01月21日(日) 日曜の夜は出たくないのに/『トガリ』(夏目義徳)1巻ほか
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