無責任賛歌
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2006年01月10日(火) |
2005年度キネマ旬報ベストテン/ドラマ『Ns’あおい』第一回/『アンフェア』第一回 |
昨年度の「キネマ旬報ベストテン」が発表、洋画の一位は『ミリオンダラー・ベイビー』で、邦画は『パッチギ!』であった。『ミリオンダラー』はしげが興味を示さなかったので結局は見ずじまいである。例年思うことではあるが、しげの好き嫌いに振り回されていると、面白い映画をかなりの数、見逃してしまうので、映画も芝居ももうそろそろいちいちしげの意向を確認しないで、一人で見に行こうと決心しているのである。それでしげがヒステリーを起こすようなら、家を追い出せばいいだけのことだ。『パッチギ』も確か私一人で見に行ったものな。 実際、去年は芝居をたくさん見に行ったこともあるが、封切り映画は70本しか見に行けていない。一昨年は100本くらいだったから、30本も見に行き損なっているのである。あとでWOWOWやCSで流れているのを毎日のように見ていたから、映画を見た総本数自体は300本を下らないとは思うが、あくまでベストテンはその年封切られた映画が対象になるから、読者投票にはとても参加できる本数ではないと思って、去年はハガキを送らなかった。実際、ベストテンに選ばれている作品で私が見に行ったものは六本しかなかった。 映画人口が三億人を切っており、年平均1、2回しか行かない現況で、70本も見ているのならスゴイとはよく言われるのだが、映画人口が最盛期だった昭和30年代には、年平均10回以上、日本人は映画を見ていたのである。これは映画を見られるはずもない子供や老人も含んでの「平均」であるから、「週末に毎回映画を見に行く」のが習慣になっている人も多く、実のところ年間50本、60本、映画を見ている人などは珍しくもなかったのだ。私の母などは子供のころからツテがあって、「毎日映画館でタダで映画を見ていた」というから、その数はどれだけになるか分からない。 映画が娯楽の王座を追われたのはテレビの普及のせいだとは常識のようになってはいるが、では現代人がそんなにテレビに噛り付いてドラマを見ているかというと、それも疑わしいところである。若い人と話していると、驚くほどに話題が狭いことに何度も驚かされる。映画に興味はないが音楽になら、とか言うのなら話は分かるのだが、音楽だってロクに知らなくてJ−POPをちょこちょこと聞く程度(彼らは「J−POP」という単語がかなり胡散臭い過程を経て造語されたことも知らないのである)、もちろんマンガも読まなければ(読めるほどの学力がない)、野球もサッカーもしない、アウトドアな趣味があるわけでもない(基本的に動き回ることが面倒くさいのである)、せいぜいゲーセンでゲームをちょこっとする程度、結局、興味の大半はナニとナニすることだけ、親からカネをせびり取ることだけはうまくて、だからナンパにだけはカネを使って、結構うまいことやっている、なんて、糞みたいなやつがゴマンといるのである。『だめんずうぉ〜か〜』に出てくる男どもはみんなそんなロクデナシばっかりだが、若い男の大半はそんな「だめんず」なんである。 そういうレベルのヤツらと比較されて「スゴイ」と言われても、嬉しくも何ともないということがお分かりいただけようか。今だって、別に映画評論家でなくても、映友会などに入っていて、年間200本とか300本とか映画を見ている人はいくらでもいるのだ。とても「私は映画をたくさん見ています」なんて威張れるレベルではない。せいぜい「普通」だ。だから逆に、「年に一本くらいしか映画を見ないなあ」と平然と口にできる連中はみんな十把一絡げでロクデナシどもと同レベルなのである。たまに一本映画を見たくらいで偉そうな顔をして映画がどうのなんて口にしないでもらいたい。 私ゃ、ホントに地元のサークルに入って、もちっと安く映画を見て本数を稼ごうかと本気で思うよ。
話は横に逸れたが、邦画の1位が『パッチギ!』というのは、いささか「保守的」だなあ、というのが私の印象である。嫌韓意識で目が曇った(念のために言っとくがだからと言って私は韓国の主張に賛同しているわけではない)連中には、これが在日朝鮮人に阿った内容に捉えられたようだが、これは確かに日韓の認識の齟齬を前提としてはいるが、政治的な観点とはおよそ無縁な庶民感覚に基づいて作られた映画であって、物語としては非常に単純な、『ロミオとジュリエット』の再生版でしかない。だからこそストーリー上の破綻もないし、「どちらが悪いということではなく、双方がそれぞれに『引いて』、物語は終わる」のである。結局は甘ったるく情緒的な話だと批判することも可能で、だから『ロミオとジュリエット』のように悲劇的な結末に陥っていない分、後味が「良過ぎる」という、美点だか欠点だか評価に困る面を持っているのである。 同様に、2位の『ALWAYS 三丁目の夕日』もねえ、「昭和30年代」という衣装を取り除いちゃうと、ベッタベタなメロドラマが残るだけなのである。それが悪いとは言わないが、「保守的」と言ったのは、キネ旬の選考者、必ずしもトシヨリばかりではなかろうに、何でこうもノスタルジックなものばかりに引っかかっているのか、と、そこがどうも合点がいかないからである。映画を評価する際に、何かの「流れ」に捉えられてしまっているような印象がする……というか、やっぱり『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ! オトナ帝国の逆襲』がその「流れ」の一端を作っちゃったのかもなあ。「そういう方向」にばかり進んじゃうのって、結果的に「現代」を見失うことになりかねないんで、あまりいい傾向とは言えないんだけど。
博多では「十日恵比寿神社」の正月大祭の真っ最中なのだが、実は私はもう二十年以上、いや、下手をしたら三十年以上、参ったことがない。商売繁盛の神様だから、博多の商売人ならたとえどんな人ゴミであろうと、万難を排してお参りするのが当然の義務のようなものなのだが、私はいっこうに無頓着である。まあ、私の仕事を知ってる人なら、それでも別にヘンじゃないとご理解いただけるであろうが(笑)。 夕食の後、散歩をして帰宅してみると、父から着信が入っていた。かかってきた時間は七時ごろである。 もう八時に近くなってはいたが、折り返し、連絡を入れてみると、父は「どこへ行っとったとや!」とえらい剣幕である。 「どこもなにも、食後の運動しよったとよ」と答えて、用事が何か聞き返してみると、父は少し落ち着いたようで、「今日は十日恵比寿やろうが。車で送ってもらえんかいなと思って電話ば入れたったい」と言った。 「なん、そうね。それなら今からそっちに行こうか?」 「もうよか。今、博多駅まで来とうもん。これから地下鉄に乗るけん、帰りに迎えに来てくれんや」 「帰りって……いつごろね」 「それが分からんったい。テレビで見たとばってん、お参りに150メートルも並んどうらしいけんな」 「じゃあ、九時ぐらいになるかいな?」 「かもしれん」 「じゃあ、そのくらいに見当付けて行くよ」 電話を切って、しげに事情を話すと、しげは「十日恵比寿神社ってどこ?」と聞く。 「千代町のあたり」 「車はどこに停めるん?」 「さあ。多分、大混雑しとるけん、駐車場は殆ど空いとらんめえね」 「どうやって父ちゃん拾うん!」 「何とかして」 「無茶やん! 行ったとこもないとこで、車も停められんて……」 「じゃあお前、親父に『行けませんから、自力で帰って下さい』って連絡入れられるか?」 「それはしきらんけど……」 「なら、文句言ってどうする?」 と言うわけで、九時を待って、私としげは父を拾えるかどうかも分からない夜の闇の中へ旅立って行ったのであった。……大げさな表現であるが、それくらい激しく、しげの顔は緊迫感で蒼白になってたもので。 現地に着いてみると、予想通り、周辺の道路は路駐の車で埋め尽くされていた。もちろん違法駐車なのだが、今日ばかりは警察も取り締まる気はないのだろう。何百メートル続いているか分からない車の列はちょっと怖いくらいである。当然、しげはどうしていいやら分からず、ただぐるぐると神社の周辺を回るしか仕方がなかったのだが、ちょうどその時、父から連絡が入った。 「いやあ、参った(シャレかい)。お参りの列と福引の列、間違えて並んでしもうて、今まで時間がかかってしもうた」 「それはいいから、今はどこにおるんね」 「神社の裏つて言って分かるや」 「さっきから、その辺、ぐるぐる回りようばってん、お父さんがどこにおるか見えんよ」 「なら、大通りまで出るけん、そこで拾っちゃり」 「わかった。どこに出たか教えてくれたら、そこに向かうけん」 電話を切って、すぐに父から電話があって、近くの建物の名前を言ったので、私にもしげにも場書は見当が付いたのでそこに向かった。 2、3分で、首尾よく父を発見することができたが、破魔矢か何かを持っているのは当然として、なぜかマスクをしている。風邪でも引いたのかと思ったが、「わざわざ呼び付けてごめんね」と謝る声は特に喉を傷めている風でもない。どうしたのか聞いてみると、「昨日、親戚と温泉に行ったら、酔っ払ってホテルの玄関ところで転んだったい」と言う。 「また、酒、飲んだんね!」 「ちょっとだけや。それにそれまでは全然、飲んどらんもん」 「でも酔っ払ったっちゃろ? もう少しでも飲んだら酔うごとなっとっちゃろうもん」 「ばってん、これはやめられんもん」 なんだかもう、ワガママな子供の言い訳を聞いているようなもので、気が萎えてしまう。それにボケも進行しているようで、「十日恵比寿に僕が最後に行ったのは、いつやったかね?」と聞いたら、「お前とは十日恵比寿に行ったことはなかぜ」と答える。んなことはないんで、小学校のころまでは縁日目当てで両親に連れて行ってもらっていたのである。第一、一緒に行っていないのだとしたら、小学生の私は、家で一人ぼっちでほったらかされていたというのだろうか? まあ、ボケ老人の言葉にいちいち逆らったって仕方がないので、「ああ、そうだっけ」と適当に相槌を打って、「腹減った」とうるさい父を連れて、帰り道の途中の「ジョイフル」に入った。私はもう食事を済ませていたので、ミニサラダだけを頼んだが、父は何の屈託もなく、生姜焼き定食だったか何かを頼んでいた。節食する気もサラサラないようだし、糖尿病が悪化するのも時間の問題だろう。もう父の行動にも私はすっかり諦めモードである。 しげはしげで、私に付きあって久しく糖尿病食ばかり食べていたから、我慢の限界が来ていたのだろう、食欲が一気に爆発したようにトンカツ定食だったかなんかにむさぼりついていた。私は肉に執着はないので、二人がガツガツ食ってても別に羨む気持ちもないのだが、普通、こういうときはもうちょっと軽いモノを頼むとか、遠慮するもんじゃないのかと思うのだが、自制の効かないヤツラだとつくづく思うことである。
ドラマ新番組『Ns‘あおい』第一回。 こしのりょうの原作コミックは、一巻だけ読んでたんだけど、あまり魅力は感じなかった。巷で言われているようにナース版『ブラック・ジャックによろしく』って二番煎じ感が強かったし、絵柄も新鮮さに欠けていたからである。『ブラック・ジャックに』もそうだったけれど、いかにも医療界のダークな部分を暴いてリアルな物語のように見せかけてはいるけれども、人物造形や関係図は、若くて熱血な主人公がいて、悪徳な職場に放り込まれて苛められて、けれどもそこでシニカル(ないしはおどけている)ではあるけれども理解ある協力者も現れて……という、医療ものに限らず、学園ものやらでも散々使われてきたパターンの繰り返しで、いかにも「作りもの」めいているのだ。 確かに、世の中には「こんな人間、本当にいるのか」と驚くくらい、ステロタイプでカリカチュアのような人間が存在していることも知っている。もしかしたら本当の医療現場も、ステロタイプな人間ばかりなのかもしれない。けれども、物語を面白くするためには、やはり「作りすぎ」感を読者に感じさせないようにする工夫というものが必要になるのではないだろうか。 で、今回、このマンガがドラマになるに当たって、キャラクターが肉体を持つことによって、マンガにあった「ウソっぽさ」が、多少は軽減されるかなあ、と、ちょっと期待したのである。……いやね、ここ二十年くらいのテレビドラマの惨状を見てればさ、そんな期待はするもんじゃないなんてことは分かっちゃいるんでね、あくまで「ちょっと」なわけで、過大な期待はしてないの。 実のところ、主役の「熱血看護師」なんてのは若い女優なら誰がやっても「同じように見えてしまう」役なので、決して下手ではない石原さとみにとっては、かえって損だろうと思う。確かに元気にソツなくこなしてはいるが、そこにあるのはやはり「キャラクター」であって生身の「人間」ではないのだ。もっと苛烈な表現をすれば、ドラマの「美空あおい」はただの「萌えキャラ」でしかない。 オタクがアイドルに「萌えー」なんて言ってるのは、「生身の人間すら、架空のステロタイプなキャラクターに仮託して見ている」ということなので、登場人物の人間的な魅力に惹かれているわけではない(そんなことはないと反論するオタクもいるだろうが、例えば人間を「ツンデレ」なんてパターンでしか認識しない単純な見方のどこがどう「人間を見ている」と言えるだろうか)。 これがアニメであったなら、あおいが「萌えキャラ」なのは仕方がないかなとも思えるのだが(原作の絵柄はイマイチ・イマニ・イマサンくらいなので、自分の好きなキャラデザインでアニメ化されたら、と想像してみてください。なんたって「ナースもの」ですから萌えるでしょう)、実写化しても「萌えキャラ」のままなら、実写化する意味なんてないじゃないか、と思うのである。石原さとみファンなら満足するんだろうが、普通にドラマを楽しもうという人間にしてみれば、「このマンガみたいなウソ臭いキャラと展開はナニ?」ということになってしまうのである。ここでは「カリカチュア」という、本来マンガの有力な「武器」となる手法が、逆にマイナスに働いてしまった悪例だと言えるだろう。 それでも石原さとみはまだいい方で、最悪なのは田所内科主任役の西村雅彦である。あんな演技のシロウトをこういう重要な「悪役」につけるものじゃない。出て来た途端に「こいつは表の面ぁ作ってるだけのキツネ野郎だ」と丸分かりの臭い演技をするから、ドラマが胡散臭くなるのだ。これでは最初、田所をいい医者だと錯覚するあおいが「ただの馬鹿」にしか見えないではないか。これを往年の『白い巨塔』の田宮二郎が演じていたら善玉とも悪玉とも付かぬ名演を見せてくれていたのではないか、あるいはもともと「善玉」の田村高広か山本学が演じていたらあおいが騙されるのも無理はないと納得させられるのではないか、などと他のキャストで考えてみたら、この西村雅彦のミスキャストの酷さが少しはご理解いただけるだろうか(譬えが古くてすみません)。 私はつくづく思うが、西村雅彦という人は、演じられる役が極めて狭く、「威厳」というものを絶対に持てない人である(つまりは今泉慎太郎の延長線上にある役しか演じられない)、それなのに「ヘンな役がやれたものだから演技力があると間違って認識されてしまい、それなりに売れてしまった」のだと思う。今回のドラマで言えば、本当は研修医で歯科医役の八嶋智人あたりの「トラブルにオタオタする」ような役柄がお似合いなのである。 柳葉敏郎も臭い演技を披露しているが、もともと「現実ではおどけたキャラを作って本当の自分を隠している」役柄だから、これはなんとかセーフである。唯一、マンガキャラに命を吹き込めたのが小峰主任看護師役の杉田かおるで、青井の指導役として、「悪にもなりきれない微妙な心理の揺れ」を見事に演じている。他が下手過ぎってのもあるかもしれないが、ああ、この人はこんなに上手い人だったんだ、バラエティ番組にばかり出してるんじゃないよと、感心を新たにしたことであった。
続いて、やはり新番組、こちらはミステリーの『アンフェア』。 篠原涼子に対するイメージは、昔はあまりよくなくて、まあ、歌手時代はバラエティ番組でその常識のなさを共演者からも馬鹿にされていたから、印象のよくなりようもなかったのだが、『Jam Films』を見て、「あっ、この子、演技できるじゃん!」と、遅まきながらその才能をやっと「発見」したのである。思うんだけどね、日本のバラエティ番組ってね、やっぱ役者の才能を削る方向に働いてるマイナス面の方が大きいよ。 女版ダーティー・ハリーと言うか、V.I.ウォシャウスキーのイメージも入っていると思うけれども、キャスリーン・ターナーと違って、篠原涼子の場合、ドラマ内でも言っていたが、カゲキな操作をするわりに「無駄に美人」というところが良い(笑)。女性を美醜で判断するな、とフェミニストからは叱られそうだが、本人は自分の美貌なんか気にもせず、ちょっと「汚れている」からイヤミがないのである。 「そんなんだから結婚できないんですよ」と相棒に突っ込まれて「こう見えてもバツイチなんだよ!」と反論するんだが、バツイチじゃ威張れないでしょう(笑)。こんなふうに間が抜けているところがあるのも愛嬌に繋がっている。もしかしたら篠原涼子、この役で化けるかもしれない。 脇役の配役も面白く、篠原涼子の上司がいつもはヤクザみたいな役の多い寺島進であるとか、元夫が頼りになるんだかならないんだかよく分からない感じの香川照之であるとか、ライバル刑事がこれまた正体不明な印象の阿部サダヲであるとか、「何が起こるか分からない」期待感を抱かせる。ミステリーのキャスティングってのはこうでなくっちゃね。 ミステリーであるから、作品そのものの評価は今後の展開を見なければ何とも言えないが、今のところは「犯人らしき人物」が殺人記録をパソコンに打っているあたりに何かの「罠」が仕掛けられていそうで、面白くなっていきそうな気配である。『あおい』で落胆したあとだけに、ちょっと評価が高くなってるかもしれないが、ラストまで見て、この評価が逆転しないことを祈りたい。
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