無責任賛歌
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| 2005年10月25日(火) |
どんな夢を見た?/『奇談(キダン)』(諸星大二郎・行川渉) |
映画の話題を二つ。 夏目漱石『夢十夜』を原作とした映画『ユメ十夜』が撮影中である。 見る前からあまり文句を付けるのはよくないことだと承知してはいるのだが、タイトルが一部カタカナになっているのはちょいといただけない。字面のバランスというか、座りがどうにもよくないように思えるのだが、このあたりはセンスの違いってことなのかなあ。 まあそれは些細な問題なのだが、『夢十夜』の映画化、と聞いて、「えええ?」と驚いた人はかなりいると思う。「できるのそれ?」と。 夏目漱石の全小説の中でも、本作を最高傑作と推す人は少なくない。漱石は『猫』や『坊ちゃん』や『三四郎』や『こころ』や『明暗』だけの人ではないぞ、ということで、特に幻想小説、怪奇小説のファンにとっては『夢十夜』は内田百�里痢慳重據戮覆匹畔造鵑如▲丱ぅ屮襪里茲Δ砲覆辰討い襦�お読みになっていない方もそうはいないと思うが、『夢十夜』ほど、活字の持つ想像喚起力を発揮している小説も滅多にない。だからこそ「映像化不可能」な部分は多く、それを映画化しようというのだから、これはかなり無謀な企画ではあるのだ。 しかし、これまで本作が全く映像化されたことがないというのも、日本映画の不毛を象徴しているようなものである。安っぽいCG映像でお茶を濁されちゃうんじゃないかとか、不安はあるのだが、ともかくもそのチャレンジ精神は賞賛しても構うまいとは思う。 一夜ずつ10分という、オムニバス映画の形式を取るので、十夜をそれぞれ別の監督で撮影するそうだが(共同監督もあるので11人とか)、今のところ発表されているのは「第一夜」の実相寺昭雄監督のみ。主演は松尾スズキと小泉今日子である。役者はそう悪くはない。 「第一夜」は、「百年待って下さい」と言い残して死んだ女の墓に、男が星のかけらを供える話である。未読の方もそうはおられまいから、ラストの文章をそのまま引用する。
〉すると石の下から斜(はす)に自分の方へ向いて青い茎が伸びて来た。見る間に長くなってちょうど自分の胸のあたりまで来て留まった。と思うと、すらりと揺ぐ茎の頂(いただき)に、心持首を傾(かたぶ)けていた細長い一輪の蕾が、ふっくらと弁(はなびら)を開いた。真白な百合が鼻の先で骨に徹(こた)えるほど匂った。そこへ遥(はるか)の上から、ぽたりと露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花弁(はなびら)に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。 〉「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。
視覚的だから、映像化は簡単だろう、というのは短絡的な思考である。活字の喚起するイメージと、映像が喚起するイメージはベクトルが全く違う。映像で茎を伸ばして花を咲かせても、それを観客が「すらりと」「ふっくらと」と受け取るとは限らない。ましてや「骨に徹えるほど匂った」様子など、映像演出と役者の演技でどれだけ表現できるものか、まず無理だろうというのが常識的な判断というものである。 そしてこれはもう、絶対映像化不可能なのが「百年はもう来ていたんだな」という男の述懐である。セリフでこれを役者に言わせてしまったら、雰囲気はもうぶち壊しである。ナレーションを入れるのではただの解説にしかならない。「百年経った」という事実は、役者が「演技力」で観客に伝える以外にないのだが、さて、その実力が松尾スズキにあるかどうか。 いや、そもそも「幻想の住人」たちに実体を与えること自体、原作のイメージをどうしたって損なってしまうものである。ミーハーなオタクや腐女子がすぐに騒ぐ「イメージが原作と違う!」というのは、言ったって仕方がないことではあるけれども、「原作を完全に映像化することなど不可能だ」という点では紛れもない事実ではあるのだ。 文学は基本的に映像化できるものではない。映像化できないからこそ、文章で表現しているのである。それをあえて映像化しようとするなら、正攻法な映像演出は全く役に立たない。ならばどうするか。それにはウラワザというか、脇から攻めるような「搦め手」を考えるしかない。実相寺監督は、果たしてこのことに気付いているのだろうか。『姑獲鳥の夏』ではまさにその「搦め手」を駆使してみせてくれたから、期待はしたいのだけれど、漱石は一筋縄で行く相手ではない。以前、実相寺監督が泉鏡花の『沼夫人』を映像化した時には(『青い沼の女』)、役者(特に主演の山本陽子)の演技が安っぽくて目も当てられないシロモノになっちゃってたからねえ。期待半分、不安半分ってところだねえ。 それにしても実相寺監督は、ここんとこ、『姑獲鳥』と言い、『乱歩地獄』と言い、映像化が難しい作品にばかりに挑んでいる。失敗する可能性の方が高いというのは分かりきっているのに、この意欲、気概はいったい何なんだろう。単に何も考えていないだけかもしれないが、こういう挑戦は若手の監督さんこそやるべきことじゃないのだろうか(その意味では『バトルロワイヤル2』の深作健太監督や、『CASSHERN』の紀里谷和明監督などは、作品の出来とは別に評価してやらなきゃならない面はちゃんとあると思う)。
もう一つの映画の話題は、諸星大二郎の『妖怪ハンター/生命の木』の映画化である『奇談 キダン』の続報である。 行川渉によるノヴェライズを読んでみると、30ページほどの短編を長編にするために登場人物を増やし、主人公にまつわるサイドエピソードも付け加えたりしているのだが、概ね原作通りの展開になっている。ただ、「おらと一緒にぱらいそさ行くだ」のセリフが「おらと一緒にぱらいそさ行くんだ」になっていたのは誤植だと信じたいが。 公式サイトもいつの間にか出来ていて、阿部寛扮する稗田礼二郎のルックスも紹介されているのだが、さすがに原作通りの長髪は無理ではあったが、全身黒服なのは前作『妖怪ハンター ヒルコ』の時の白服・沢田研二よりも原作のイメージに近くなっている。黒ぶちメガネも悪くないアイテムである。 しかしそれよりも脇のキャストが凄くて、スチールを見る限りでは、「重太」は神戸浩で、「三じゅわんさま」が白木みのるである。ナイスキャストっつーか、本人そのものじゃないかと言うか、こんなにインパクトのあるキャストは空前絶後だろう(笑)。これだけでもこの映画が「異端映画」になることは約束されたようなものである。 あとのキャストは、神父が清水紘治だとは分かるのだが、殆どが何役をやるのか不明。でも公開日も近いし、そのへんは見てのお楽しみということで。土屋嘉男さんや堀内正美さんと、特撮ファンにもお馴染みのキャストを揃えてくれているのが嬉しい。「超星神グランセイザー」のちすんちゃんを第二のヒロインに持ってきてるのも特撮ファン動員を狙ってのことだろう。 肝心の「善次」を誰が演じるのかが公式サイトを見てもよく分からないのだが、これはシークレット・キャストなのか、それともCG映像にでもする気なのか(笑)。まず間違いなく駄作になることだけはないと思われるので、ジャパン・ホラー映画にいい加減飽きてきたお方も、諸星大二郎の世界に浸ることで渇を癒していただけたらどうだろうか。でも「珍品」になる可能性もあるので、見て腹が立っても怒らないでね(笑)。
いつものように父を見舞いに行ったら、会うなり、「根上淳が亡くなったなあ」と「おおごと」のように呟いた。
俳優・根上淳、24日、脳梗塞で死去、享年82。 もう20年以上も糖尿病に苦しみ、最初の脳梗塞を起こしたのも8年前、それから「まだらぼけ」も起こして、夫人のペギー葉山さんもかなりご苦労なされていたとのことである。
ちょうど、父の病状とも重なるので、父が不安になるのは分かる。まだらぼけとまではいかないにしても、父の記憶の混濁はこの数年、かなりひどくなってきているのだ。これももしかしたら動脈硬化かがあちこちで進行しているせいかもしれない。 けれど、父にかけるべき適切な慰めの言葉があるかといえば、そんなものはないのである。
帰宅して、ネット検索してみると、追悼を述べていた日記やブログの8割が「『帰ってきたウルトラマン』の伊吹竜隊長の……」と記述していた。ほかは一部が『稲妻』に触れている程度。 もちろんそれは間違いではないのだが、根上さんは特撮だけの人ではない。伊吹隊長を演じた時、既に役者としてのキャリアは充分以上に積んでおられた方だ。根上さんが隊長を演じた当時、まだ子供だった私ですら、「特撮ドラマに出演する人は決まり切っていると思っていたのに、ほかの畑からキャスティングされることもあるんだ」と思ったくらいである(実際には初期ウルトラシリーズの隊長役は、ベテラン役者の方を使うことが多かったのだが)。そういう人が亡くなったときに、「特撮番組だけ」で語られてしまうというのはどう考えたらいいのだろう。日本での映画やドラマのファンの意識の低さを表していると糾弾することも今更詮無いことで、ただ悲しみが弥増すだけである。 一般的なイメージは『連想ゲーム』の方が強いはずなのだが、それに触れている人すら少ない。もちろん『連想ゲーム』のみで語られることも根上さんにとっては嬉しいことではあるまいが、根上さんのようなベテラン役者ですら、こんなに「忘れられている」ことを思うと、役者っていったい何なんだろうな、としみじみと思うことである。特撮ファンに覚えられていただけでもよしと考えるべきなんだろうか。
初期『ウルトラ』シリーズの隊長さんたちも、大半が鬼籍に入られてしまった。時代が移り行くのが運命とは言え、過去の記憶を共有する人はどんどん少なくなる。私よりも年下の人の方が、人口で占める割合が増えようかという年になってしまっているのだ。若い人からうるさがられようが、小言幸兵衛になってしまうのも自然、無理ないことだよなあと思ってしまうのである。
『1リットルの涙』『鬼嫁日記』『タモリのジャポニカロゴス』と続けて見る。 感想全部書いてるとツライので、『1リットルの涙』についてだけね(笑)。 第3回にして、亜也はついに自分が「脊髄小脳変性症」であることに気付く。「どうして病気は私を選んだの?」という彼女のセリフを聞くと、まるで自分がその言葉を聞かされている医師になったような気分にさせられてしまう。そして、答えようもない現実に打ちひしがれて、気がついたらくやし涙を流してしまっているのだ。 実は毎回見ながら私はこのドラマで泣いてしまっているのだが(笑)、同時にこんな演出過多なドラマで泣く自分にも腹が立つというか、やや嫌気がさしているのである。『セカチュー』や『いまあい』で泣いてるバカオンナどもを笑えやしない。 なぜこういうドラマで泣くことが恥ずかしいかというと、例えば難病のヒロインが沢尻エリカのような超美少女じゃなかったら、果たして泣けていたろうか、というミもフタもない偏見が自分にあることを自覚せざるをえないからだ。これが、主演が泉ピン子だったら私はまず泣かない。また、ヒロインが優しく意志も強く、病気に立ち向かおうとする健気な子でなかったら、やっぱり私は泣いていなかっただろうと思う。これが守銭奴で性格の歪んだ因業ババアが「何であたしだけがこんな目に」とか言おうものなら、天罰が下ったんだとしか思うまい。 要するに、「美しく健気な美少女」が難病にかかっているから私は同情しているだけなのである。病気に苦しむ人全般に対して気遣う気持ちなんてない。しかしこれは私だけの感覚ではないのではなかろうか。相手の美醜、境遇、人種などに関わらず博愛精神を抱けるようなマザー・テレサのような人間が、そうそう巷に溢れているとは思えない。ドラマに感動する大半の視聴者は、「アイドルやスターの純愛ドラマ」を疑似体験して感動しているだけなのである。難病と闘う人の心の気高さなどに感動しているのではない。 もちろん、製作者側だってそんな一般人のエゴイスティックな同情心は先刻ご承知だろう。大半の視聴者が、ドラマを見たからと言って別に難病者に対する理解なんて示しはしないと分かった上で、営々とキレイゴトのドラマを作っていく。その視聴者を「乗せていく」心理誘導の過程は、「ヤラセ」番組と本質的に少しの変わりもないもので、「まず視聴率ありき」の姿勢は苦々しい限りだが、みな、それにまんまと乗せられてしまっていることが悲しいのである。。私もまたその愚かな大衆の一人に過ぎない。 そう自覚していながら、やっぱり沢尻エリカと薬師丸ひろ子の今後に注目している業の深い自分がここにいる。いや、だって沢尻エリカ、『パッチギ』のころの三倍は美しくなってんだもの。ちょっとこれは見入っちゃいますよ。うん。
2002年10月25日(金) 巨とか貧とか実はさほど気にしてない。ホントよ/『敬虔な幼子』(エドワード・ゴーリー)/ドラマ『時をかける少女』(内田有紀版)ほか 2001年10月25日(木) わが名はロドリゲス/映画『眠狂四郎人肌蜘蛛』『旗本退屈男 江戸城罷り通る』ほか 2000年10月25日(水) 今日は三度も昼寝した。やっぱ体変だわ/『冬の教室』(大塚英志)ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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