無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年05月25日(水) 「『創氏改名』は嘘ですから」は嘘ですから/『メンタル三兄弟の恋』パート2

(昨日の続き)
 
 「リフトの上の3人の詩人」
 途中で停止してしまったリフトの上で、することもなく3人の詩人が詩を口ずさむ。
 大竹「いつ動くんだ」
 きたろう「空、どうしようもなく空」
 斉木「雲ただただ雲」
 大竹「いつ動くんだ」
 斉木「今、我ら詩人にできることは、詩を作ることだけ」
 きたろう「ここが宇宙の入り口かもしれない」(「出ちゃったね詩が!」と斉木が誉める)
 斉木「このリフト 僕のタイムマシンさ」(二人、「だせえ」と嘆息する)
 大竹「リフト・イズ・デッド リフトは死んだ」(「何言ってるんだ」と自分突っ込み)
 斉木「ほどほどにねえー」
 大竹「何してるんですか?」
 斉木「溶かしているのさ、言葉を。ちっくたっくちっくたっく、ぼーんぼーん」
 大竹「銀河鉄道のリフト」
 きたろう「リフトは釣り針 俺たちは餌」
 斉木「リフトは山の回転寿司 俺たちは寿司」
 きたろう「リフトはクレーン 俺たちは景品」
 大竹「いつ動くんだ!」
 斉木「今、詩人にできるのは、詩を作ることだけ」
 大竹「空にピン止めされた 老人コレクション まだ三体 今ほしい 永遠のように長い 一本の針金」
 きたろう「針金ならば5メートルあれば アトモスフィア」
 大竹「(きたろうに)おまえの背中は小作農」
 斉木「俺の背中は航空母艦」
 大竹「お前の肩 ショルダーバックがなぜ落ちる 背中の丸みは縄文人」
 斉木「お前の背中 今すぐ見たい」
 大竹「お前の背中 カナブンみたい」
 斉木「カナブンよ 今すぐリフトのスイッチにぶつかるがいい」
 大竹、すぐ後ろのリフトの座席が壊れるのを見て、焦って「一つおきだったらいいなあ」と歌う。もちろん、その前にいるのはきたろうさん。
 斉木「一生このままだったらどうしよう」
 きたろう「急にモテたらどうしよう」
 斉木「今、詩人にできるのは、詩を作ることだけ」
 きたろう「空、どうしようもなく空」
 斉木「雲 ただただ 雲」
 大竹「風」
 斉木「ネピア」
 きたろう「クリネックス」
 大竹「スコッティー」
 斉木「エルモア」
 きたろう「エルエール」
 大竹「バンビックス」
 三人「フォクシー!」
 思わず「詩」を全部紹介してしまったが、日記にポエムを載せるなら、こういう詩を作りたいものだね(笑)。
 
「スキル王とメンタル王」
 水が吹き出ていて今にも決壊しそうな堤防を、二人の王が何とかしようとするが、どちらも帯に短したすきに長しで役に立たない。スキル王は助ける技術はあるけれど心が弱くて何もできない。メンタル王はイメージトレーニングだけで実行力がない。
  虎(のハクセイ)に食い殺されかけている大竹をきたろうが救うのだが、大竹さんがいくら「助けてくれ〜!」と叫んでも、きたろうさんは「意地悪して」反応しない。おかげで大竹さんは間が持たずに「メンタル王って人はいないのか!」と叫ぶ羽目に。アドリブな意地悪だが、実際の舞台でこれをやっても嫌味にならないのはきたろうさんの芸の力というものだろう。一見、何もやってないように見えるんだけどね。

 「逃げる警官」
 イカレた男(中村)に襲われた二人の警官(大竹・きたろう)が逃げて逃げて熱海まで辿りつく。これも実話を元にしたスケッチだとか。
 宿屋の一室でテレビを見ると、どこのチャンネルでも「恥さらし警官逃げだす!」のニュースをやっているのに、テレビ東京だけがアニメをやっているというギャグが秀逸。これは殆ど生版と変化はなし。

 「定食屋のパチンコ」
 店の前で、客が入るのを待っている店主の斉木。けれどちょうど「3人」が揃わないので、なかなか店の中に入ってきてくれないのである。
 最後のスケッチのわりにはもう一つの出来か。

 カーテンコールの舞台挨拶で、中村さんが「小倉と博多は仲が悪い。小倉は博多のことを『何をカッコ付けてるんだ』と思ってる」と紹介していたのに大爆笑&大拍手。地元の人間もよく知らない人が多いが、北九州は言語的には山口県に属しているので、実は九州ではないのである。地元を茶化されてもかえってヨロコブ難儀な性格はそっくりなんだけどね。

 芝居を見終わってロビーに出てみると、なんと下村嬢の姿が。しげには見に来ることを知らせていたらしいが、私は知らされてなかったのでビックリである。「面白かったでしょう?」と感想を聞いてみたが、どうもイマイチだったらしくて、困ったような表情をされる。そういうときは正直に言えばいいんだけど、なんかみんな遠慮しちゃいがちだね。自分の好きなもの貶されて怒るほうが傲慢なんだけどな。

 小倉駅でよしひと嬢と別れて、一路博多へ。
 ギリギリ最終のバスに間に合って、帰宅は11時近く。
 テレビを点けたら『NHKスペシャル』で、『放浪記』の森光子の特集を放映していた。「自分以外の誰に林芙美子が演じられるものか。やれるものならやってごらんなさい」という言葉は傲慢に聞こえかねないが、森さんの口から流れてくると説得力があるのでまるでイヤミに聞こえない。これが「芸の力」というものだろう。
 おかげでしげが「自分なんかが芝居をやっちゃいけないのかなあ」と落ち込む。そう言いながらも芝居をやらずにはいられないのがしげの業というものなので、悩むだけ時間の無駄である。根気も記憶力もないくせに、芝居に関してだけはなぜか「継続力」があるようなのが不思議なのだが。



(これより25日の日記)
 しげは今日は一人で『メンタル三兄弟の恋』を見に行っている。平日の昼公演なので、当然私は付いて行けない。なんたって全公演の楽日だから、どんな舞台になっているか想像もつかない。行きたい気持ちは山々なのだが、仕事を休んでまでは行けないんだよなあ、なんて良識的な判断をしてしまっているのはオタクらしからぬところであるが、だからもうオタクなんて名乗るのは返上したっていいかもしれない。
 帰ってきたしげに話を聞いてみたところによると、昨日の芝居ともかなり違ってるところがあったそうな。まずはきたろうさんがやたらコケていたとか(笑。いや、笑っちゃいかんか)。「余った時間の使い方」コントでは椅子につまずいて転んでかなり間が変わっていたそうだし、「3人のカウンセラー」でも、小山崎さん(中村有志)の留守電を聞きに行こうとして、やはり椅子に躓き、いつもは「あー、うー」としか吹き込まないのに「転んじゃった」と吹き込み、そのあとの「何にも言えなかった」の台詞が「全然別のこと言っちゃった」と変わってしまったらしい。本当は「何にも言えない」のでなければ、次のオチに繋がらないのだが、それでも会場は爆笑だったようなので、結果オーライというやつであろう。
ほかにも、「チャーハンショー」に演出の細川徹さんが飛び入り出演していたり、「武装サラリーマン」の中村有志さんが大熱演で拍手喝采だったり、一日経っただけでも相当違った印象になっていたようだ。やっぱ芝居はナマモノだからねえ。まさしく一期一会。高いカネ払って見るだけのことはあるんである。
パンフレットを買った人だけが見ることのできる(っつってもパスワードをネットでバラしてる馬鹿野郎もいるようだ)ひみつ(「ひみつ」はひらがなだっ!)サイトを覗いてみたら、小倉の町を気に入ったこと、来年も来たい旨のことが書かれていた。ぜひとも実現を。


 なんか、お気に入りの日記を回っていて、ちょっとウンザリしたこと。
何度も「政治的なことはあまり書きたくないなあ」とこの日記にも書いちゃいるのだが、歴史の事実というのはこうも消えていくものなのだねえ、と実感したもので。
 何のことかと言うと、「戦時中の朝鮮人の創氏改名は強制されたものではなかった」という主張がされていたのだね。その根拠というのが、「創氏改名は申告制だったから」というので思わずずっこけちゃったのだけれども、この人は「申告しなかった朝鮮人がどういう目に合わせられるか」ということに想像がまるで至らないらしい。
 日韓併合は双方の合意の上になされたんだから、創氏改名も施行上は当然「申告制」になるわなあ。けどそこで気が付かなきゃならないのは、そもそもなんで「創氏改名」をしなきゃならなかったのかってことで、その人の主張する「氏(ファミリーネーム)を持たない朝鮮人に氏を創らせた」ってのは、大嘘なんである。当時も朝鮮人はみんな姓(厳密に言えば「姓」と「氏」は違うんだけど、とりあえず同じものということで話を進めます)を持ってたよ。ただ、一族みんな「金」さんとか、朝鮮人の名字数は日本人に比べれば圧倒的に少なかったので(この「名字が少ない」「戸籍が整備されていない」というのが、「朝鮮人には姓がない」というデマを生んだのである)日本人の感覚からすれば区別が付かず「金田」「金本」「金山」とか名前を付けて区別しようとした。そこには「五族協和」と言いつつ、実際には「みんな日本人になっちゃえばサベツがなくていいじゃん」という意識が働いていて、日本人は“みんなに優しい”政策のつもりでいたけれども、朝鮮人の民族としてのアイデンティティーを踏みにじってることに少しも気づいていなかったのだ。
 現在でも、別に「強制」されてるわけでもないのに、多くの在日朝鮮人が「日本人名」を通称として使ってることをこの人はどう考えているのかね? 「それはその朝鮮人に勇気がないからだ」で済ませるか? “日本人にならないと”どれだけの差別を受けるか、知り合いに一人でも朝鮮関係の人がいれば気づいてておかしかないんだけどねえ(本名でがんばれ、というのは理想論で、人間、みんなそんなに強いやつばっかりじゃないのだ)。過去のことは知識としてしか知らないとしても、目の前の現実も見えてないという点で、この人は情けないくらいの馬鹿なのである。
 逆の立場で考えてみて、「日本人、明日から、名字を朝鮮名に変えなさい。でも強制じゃないよ。申告制よ」と言われて、「なんてありがたい申し出なんだ!」って思えるかね? 思えるんだろうなあ、その人には(その人に言わせれば、「当時朝鮮人の位置付けは中国人より下だったので、日本名改名希望者が殺到した」んだそうな。で、その「位置付け」とやらは「誰」が決めたの?)
 さらには「将校で朝鮮名のまま活躍した人もいた」と主張しているのだけれど、ここまで来ると、イデオロギーに凝り固まって思考力自体をなくしてしまっているとしか思えない。あのね、それはね、「将校」だからこそ、創氏改名はされなかったのだってことなんだよ。つまり、「日本に協力している朝鮮人」として「広告塔」に使われてたのよ。
 その人の言によれば、「朝鮮人の誰もが日本名に改名したがっていた」ということだけれど、だったらどうして、朝鮮人の代表ともいうべき「将校」が創氏改名していなかったのかな? 自分で書いててこの人はその「矛盾」に気が付いていないのだ。「広告塔に使われてた」という理由に納得が行かないのなら、将校本人たちが「朝鮮人のアイデンテイティーを失いたくなかったのだ」と解釈してもいい。けれど、どちらの理由で解釈しても、「創氏改名」が当時から「代表的な朝鮮人には拒絶されていた」という事実がハッキリ見えてくるのだ。
 史料にこだわる人は往々にしてその背景にある人間心理の機微を見落としがちなのだけれど、それにしてもこれはひどい。こんなに人の気持ちを推し量ることができない人が、政治や国家を論じようってんだから、全く情けないやら馬鹿馬鹿しいやらなのだが、困るのは、こんなにアタマが偏っちゃってる人の書いてる内容を読んでも、少しもウソを見抜けない人は世の中には結構いて、簡単に「日本は朝鮮にいいことばかりしたんだ」と思いこんでしまうことである。現在までの北朝鮮・韓国の反日政策に批判的な人だって、この「創氏改名」については「やるべきじゃなかった」って思ってる人は多いんだけど、そういうことも知らない。結果、馬鹿な言を吐き散らして、「日本人、反省しない」の印象を裏付けてしまうことになるのである。
 私だって、今の北朝鮮・韓国は圧倒的におかしい、と思ってはいるが、だからと言って、「日本には過去に一点の曇りもない、日本が反省すべきことは何もない」とばかりに事実を捻じ曲げてまで自己主張したいとは思わない。つか、「平和な現代」ですら、日本国中にありとあらゆる不祥事が蔓延しているのを目の当たりにしているのだ。ましてや、戦時中、日本人が常に冷静かつ紳士的に行動していたなんて幻想、誰が信じられるもんか。
 小泉首相は靖国参拝していいし、呉儀副首相の会談キャンセルには厳重抗議していいし、扶桑社の教科書を採択する自治体があっていいと思うけれど、「創氏改名」を正当化しようってのはもう相当アタマがイカレているのである。誰が何書いたっていいから別に当人に抗議する気なんかないが、どっちの言い分が正しいかは、それこそ読んだ人が自分の頭で判断してちょうだいね。

2004年05月25日(火) 『バナナがすきな人』&また来た首吊り。
2003年05月25日(日) すっ飛ばし日記/エロくて見せられない女
2002年05月25日(土) サヨナラを言いたくない人/『真・無責任艦長タイラー外伝 LOVE&WAR』(吉岡平・森小太郎)ほか
2001年05月25日(金) ドームにぃ、轟くピンのぉ音ぉ♪/『ウインドミル』11巻(橋口隆志)



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