無責任賛歌
日記の表紙へ昨日の日記明日の日記




ホームページプロフィール掲示板「トーキング・ヘッド」メール
藤原敬之(ふじわら・けいし)

↑エンピツ投票ボタン(押すとコメントが変わります)
My追加


2003年07月25日(金) ムダじゃムダじゃ/『フラッシュ! 奇面組』2巻(新沢基栄)/『ぼくんち 全』(西原理恵子)/『ねらわれた学園』(眉村卓)

 一昨日の『トリビアの泉』、帰宅が遅くて見逃してたので、ネットでネタだけ紹介してるサイトで確認をする。
 そこまでして見たいのはやっぱり好きなんじゃないかと突っ込まれそうだけど、そこがまた微妙なところで、「ここんとこをもちっとこうすれば面白くなるのになあ」という物足りなさ、隔靴掻痒感が強いからどうしても文句が口をついて出るのだ。とりあえず司会とゲストのツマラン喋りカットして、せめてあと二つくらいはネタを増やそうよ。
 「少年の声変わりの瞬間が録音されたレコードがある」ってのは見逃したのが惜しかった。随分昔に何かの科学番組でこれ流してたの(恐らく『四つの目』あたりではなかろうか)聞いたことはあったんだが、もうしばらくその存在自体忘れてたのだ。
 このネタがまた『へぇの本』にまとめられたとしても、CDをフロクに付けるわけにはいかないだろう(それともDVDで出るか?)。映像は写真で紹介できても、こういう「音モノ」は現物に当たるしかない。とは言え、1968年に発売されたという『変声期』というレコード、実際にそれを聞いてみたいと思っても多分もう売ってない。こういうネタこそ、テレビ向きなんである。
 「午前十時十分の『十分』の読み方は『じゅっぷん』ではなく『じっぷん』である」ってのは記録を見るとたった「12へぇ」であるが、高得点の「へぇ」(『変声期』は90へぇ)とのバランスを取るためにわざわざこんな誰でも知ってるようなネタ(マトモに学校に通ってた子なら小学校の時に先生から注意されてるはずである)を取り上げてるんだろうか。それとも制作スタッフは小学生並の学力もないのであろうか。もしも視聴者に対して「どうせテレビを見てる視聴者なんてこの程度で『へぇ』というに決まってる」なんて侮りがあるとしたらふざけた話である。
 ちなみに「十返舎一九」も読みは「じっぺんしゃいっく」である。高校のときに「じゅっぺんしゃ」とフリガナ打ってペケをもらった記憶のある方は多かろう。もっともこの間違いは圧倒的に多いんで、国語審議会もいい加減「じゅっ」の読みも現代語に関する限りは(古語や人名に関しては別)認めたらどうかと思うんだが。少なくともパソコンはもう「じゅっぷん」でも「じっぷん」でも変換してくれるぞ。

 さてこの『トリビアの泉』についてだが、西日本新聞に連載されている宮原哲氏(西南学院大教授)の『コミュニケーション哲学』77回に、次のような解説が載っている。
 本文は長いので要約すると、「現代は情報化社会である。溢れ出る情報に晒されて、我々は心の健康を害することもある。そうならないために仕入れた情報を他人に発信して新陳代謝を図らねばならない。しかしその情報を思いこみで解釈したまま発信してしまうと、他人を傷つけかねない。この番組に投稿された情報は、『へぇ』のボタンで評価されるが、その数が少なければそれだけ無駄な知識なのである。みんなで『へぇ』と言いあってコミュニケーションを図り、その平均値をつかむことが一人よがりの情報発信を少なくすることになるのだ」
 なんだかこの論法だと、「へぇ」のポイントが高い情報は「ムダ知識ではない」とでも言いたげだが、ポイント高かろうが低かろうが、ムダはムダではないのかね。どっちかと言うと、ポイントが高いほうがムダ度が高いと感じる人の方が多いんじゃなかろうか。
 宮原氏が、「もともとムダ知識なんだけど、コミュニケーションの道具として使える点ではムダではない」という意味で語っているとしても、じゃあ例えば「へぇ」度の低い「『十分』の読み」はコミュニケーションに役立たないムダ知識かというとそうではなくて、これ単に正しい読みを知ってるべきな基礎知識だから「へぇ」度が低いだけなんである。「消耗」は本当は「しょうこう」と読むとか「憧憬」は本当は「しょうけい」と読むとか、こんなのは知らない人が多くても、トリビアのネタにはならない。ムダ知識だけど、「使いようによっては」会話が楽しくなるとか、その方法を見せてこそコミュニケーションの道具となりえるのだ。 
 「クラーク博士って知ってる?」
 「知らなーい」
 「……『青年よ、大志を抱け』って言った人だけどね」
 「ふーん。で?」
 「その人、詐欺で訴えられたことあるんだよ」
 「ふーん、で?」
 「……」
 会話相手の知識を随分低く見積もってると思われるかもしれないが、仮にこれが「知ってる」であっても状況はあまり変わらないのである。
 逆に「『十分』の読み」でも、「最近の若い子って、『十分』の読みも知らないんだよ」と口火を切れば、コミュニケーションの道具に使えないわけではない。
 もちろんそこまで番組が「演出」してやる必要はないし、そもそもコミュニケーションの仕方を覚えましょう、というのが主眼の番組ではない。こういうトンチンカンな批評が出てくるあたり、やっぱり「ムダでない知識の方がエラい」、と思いこんでる御仁の方が世間には多いのである。ムダはムダだからこそ意味があると思ってる人も多いと思うんだがなあ。


 『ひょっこりひょうたん島』のキャラクターで、NHKのテレビ放送50年キャラクターであるドン・ガバチョの声を、先月亡くなった名古屋章に代わって栗田貫一が演じることになったというニュース。
 作者の井上ひさしの推薦ということだけれども、ルパン三世の時と言い、いらぬプレッシャーばかり与えられて、ちょいと気の毒な気がしないものでもない。役者の立場から考えれば、こういうオファーがあったら、これはとても断れない。叩かれることを承知で引き受けざるを得ないのである。それは名古屋さんが藤村有弘さんの跡を継いだ時も同様だったと思われる。
 実際、栗田さんのルパンの声、批判は多いがそれほどひどくはない。山田さんにしたところでよかったのは初期のルパンのときくらいのもので、『カリオストロの城』だって、クラリスとのやりとりなんか臭い部分が目立つ。何度か書いてるが、栗田さんより山田さんの方が上なんてのはただの先入観だ。
 問題なのは「似た声を」と発想する製作者側のほうなんで、藤村さんと名古屋さん自体、声質が全く違うので、この際、新しいイメージの役者さんを探してもよかったんじゃなかろうか。だって、このまま行くとトラヒゲの熊倉さんが亡くなったら、それも栗田さんにさせるのか、若山弦蔵、楠トシエ、中山千夏、堀絢子各氏、全員、栗田さんにやらせるつもりか、ということになってしまう。バカボンのパパだってもう三人もいるのだ。製作者も視聴者も擦りこまれたイメージに拘らず、「役者の演技」を見て評価してほしいものなんだが。


 しげがまだ『プリンセスチュチュ/雛の章』を見てなかったので、最後までぶっ通しで見る。しげは滅多に作品を誉めないので、ドキドキものだったのだが(つまんないものを見るとヤツアタリされるので困るのだ)、最後まで気に入ったようで助かった。
 そうだよなあ、もしもアレがアレになっちゃってたらアレと同じだもんなあ。アレがアレのままだったからアレはよかったのだ。毎度のことですが、ネタバラシにならないように書くと何が何だか分らんのだけど、そこんとこはどうぞ御容赦。

 もともと今日はしげの仕事が休みだと聞いていたので、『チュチュ』を見終わったあともDVDマラソンをするつもりだったのである。ところが見終わるやいなや、急に「仕事に行く」と言い出してしげは支度を始めた。
 「休みじゃないのか?」と聞いたけれど、「今日は人出が足りないから」とのこと。何だかいたたまれなくなったらしい。
 こういうところを見て「奥さん、優しいじゃないか」とか誤解してはいけない。単に「自分だけが楽をしてるんじゃないか」という思いがプレッシャーになって、不安になってるだけなのである。でもこれが決してワーカホリックなわけではないから(家事はしないんだからとてもそうは言えない)、要するに心のバランスが取れてないだけなのである。
 家でやることと、仕事でやれること、どちらにも限界はあるんだから、もちっとアタマを使えば自分自身のプレッシャーからも解放されると思うんだが、どうしていつまで経っても学習しないのかね。


 夜、チャットで鍋屋さん、あやめさんと。
 あやめさんは久しぶりのお出ましだが、めでたく今回ご退職が決まったとのこと。退職したのに「めでたい」というのもおかしな話だが、ご本人が大文字で「めでたいの!!」と仰るから、めでたいのであろう(^_^;)。まあ才能のある人は何らかの形で頭角を表すものだから、退職されてもあまり心配はないんだろうね。ああ、羨ましい(T∇T)。
 私ももう職場の人間関係にホトホト疲れているので(つか、相手って一人だけなんですけど)退職できるものなら退職したいのだが(マジで「あの人に会いたくないから辞めたい」なんて感じたのは初めてである)、四十の坂を越えてこんな病気持ちが再就職できるはずもない。
 それでもいつかリタイアしなければならない時が来るかもしれない。あの、知り合いのみなさん、お願いなんですが、もしそんな事態になって、私の再就職先から探偵が来て(^o^)「藤原さんってどんな人ですか?」とか聴かれたら、「そうねー、典型的な生活無能力者のオタクだねー」とだけは言わないでくださいね(^_^;)。でもそれしか言えんか。


 マンガ、新沢基栄『フラッシュ! 奇面組』2巻(スクウェアエニックス/ガンガンコミックス・410円)。
 続編ではなくリメイクされての第2巻。ここからが高校生編で、新作なのに懐かしいギャグが満載である。でも、昔ファンだった人間なら分ると思うけど、今の若い人がこのギャグの「古さ」を楽しんでるのかどうか、本気で気になるねえ。ケータイにルーズソックス(東京ではまだ流行ってるのか?)の女生徒が描かれるようになっても、一応高校にはちゃんと番長がいるのである(^o^)。
 まあクラスメートのみんなが再登場するのは分るが、まさか手目小野若蔵まで
出てくるとは意外だった(^_^;)。
 あと、ゴルフねたで6回(半年)も引くのはちょっとやりすぎとちゃいまっか。その間、他の名物グループ出演できないし。


 マンガ、西原理恵子『ぼくんち 全』(小学館/ビッグスビリッツコミックス・550円)。
 カラー版単行本を全1巻に纏めた廉価版。映画化に合わせての発売だけど、4ページだけ描きおろしが付いてるので、そのためにだけ買いました。ファンはツライよ(T∇T)。
 描きおろしは特に続編ということではなくて、神子姉ちゃんと二太が裏山に登って沖の船に手を振る、それだけの話。それだけの話だけど、これ、文章だけでも立派な小説になっている。

> おねえちゃんが、船が帰ってくるから手をふりに行こう、とゆうので、ふたりで裏の山に登った。
> 「おねえちゃん、今日の船、誰か知ってる人のってんの?」
> 「むこうの町で、ひと月働いたら、毎日 朝のみそ汁にたまご入れられるて、それっきり。たまごなんて入ってなくてもええのになあ。みんながいっしょにおれたら、それが一番ええのになあ」
> 「あっそれはな、ボクもサンセイやっ。みそ汁なんてな、フジツボでええねん。ええにおいするし。朝ていぼういってな、フジツボと岩のりぴゃっとはがしてくんねん、ボクあれ大好きや」
> 船がきたので、ねえちゃんとボクは手をふった。
> 船からはみかんの花みたいにちいさい手がぴらぴらするのがみえて、みんな自分の一番好きな人とまちがえてるんだろうと思う。


 サイバラさんのこういう「感動モノ」を、「ウケ狙い」と嫌う人もいるようだが、私は情感を込めているようでいて実は細かいところに働いているストイシズムや冷たさが好きである。
 例えばサイバラさんは「人」を「ひと」とも「ヒト」とも書かずに「人」としか書かない。誰とは言わんが、やたら「ひと」に情感込めてひらがなでしか書かないポエマーとかいるでしょう。そういうのを毛嫌いしてれば、自然、「人」は「人」としか書けないのである(すみません、私もしょっちゅう「ひと」とか書いちゃいます)。
 「ゆう」という表記の仕方も同様である。「いう」という正式な書き方がサイバラさんには絶対に納得できないのであろう。「ゆう」が無教養さの象徴であるなら、サイバラさんは絶対に「教養」ある側には行けない人なのである。
 描かれる人間関係も、ベタベタな「絆」などではない。かの子も二太も船の人々もみな嘘をついている。嘘をつかなければ人間関係など結べないことを熟知している人ばかりなのだ。「優しさ」も「笑い」も「涙」も、全て虚構であることを喝破するサイバラさんの視線が、どうして暖かかろうか。
 人の心を揺さぶるのが愛情だと信じている人にはサイバラさんのこの冷徹さも暖かく見えてしまうのかもしれないが、私はこの『ぼくんち』のラストシーンの二太の笑顔を見たとき、「サイバラさん、鬼だ」と思って戦慄が走るのを覚えたものだ。
 あんたね、人生には別れしかないってラストで「あえて笑え」って、そんなふうに躾られてるガキ見て、感動できますか? このマンガ、見方によっては第一級の「ホラー」だとも言えるのだ。 
 てなわけで実は私、この本では泣いてません。泣いたと思ってた人もいるでしょう。いや、泣ける人はそれはそれで幸せなひとだと思いますよ。たぶん。


 眉村卓『ねらわれた学園』(講談社/青い鳥文庫fシリーズ・651円)。
 ここしばらく児童書のコーナーを回ってなかったので気が付かなかったのだが、講談社が小学生向けにSF・ミステリーのジュブナイルを積極的に提供しようと新シリーズを続々と創刊し始めている。
 「fシリーズ」の「f」は、SFの「f」、未来(future)の「f」、ファンタジー(fantasy)の「f」、ふしぎ(fushigi)の「f」なんだそうな。先月から、楠木誠一郎『お局さまは名探偵!』、小松左京『空中都市008』を皮切りに、毎月、2、3冊を上梓して行く予定で、今月はこの『ねらわれた学園』が目玉となる。
 本作はもちろん、これまでにも何度も版を重ねてきたし、映像化も何度となくされてきた(我々の世代には何と言ってもNHK少年ドラマシリーズの『未来からの挑戦』や、薬師丸ひろ子主演の映画&原田知世主演のドラマ化が印象に深い)ジュブナイルの傑作である。

 阿倍野第六中学校は、勉学一本槍の校風に反発する生徒が年々増えていく傾向にあった。新しく生徒会長となった美少女、高見沢みちるは、その魅力的な微笑と不思議な力で「校内パトロール」を結成、少しずつ、そういった「反動分子」を「粛清」していく。彼女の正体は、その真の狙いは何なのか? 校内が日に日にただならない雰囲気に包まれて行くのを感じた関耕児と楠本和美の二人は、高見沢みちるの通う「栄光塾」にその秘密が隠されていることを知る……。

 私が最初にこの小説を読んだのは、主人公の耕児、和美たちと同じ中学2年のことだと思う。
 これにどれくらい影響を受けたかというと、中学校の生徒会で「最近、校内の風紀が乱れているように思います。生徒で校内パトロールを実施したらどうでしょうか」と提案し、見事に却下されたことがあるくらいだ(^o^)。
 もちろんこれは、却下されることが目的だったのである。いやね、心情的には当然、耕児たちに共感を覚えてたんだけど、私本人は別に熱血漢でも正義漢でもなかったから、あえて逆の立場を取ってみて、当然みんなもこの本を読んでいるんじゃないかと思って「遊んで」みたのよ。まかり間違って、提案が通ることにでもなったらそのときはかえって困ることになってたんじゃない? という疑問を抱く方もおありだろうが、その心配はいらなかったのだ。
 会議の席である女の子が「それ、『ねらわれた学園』でしょう?」と言って、本作の村田和美そのままに、パトロールの不当性を訴えた。私もあっさり自分の提案を取り下げた。
 もちろんその子にも私が提案したことの意味はよくわかっていた。校内の風紀の乱れは現実にあって、先生たちも何か厳しい方策を、と考えている雰囲気がそのころにはあった。かと言って過激な「取り締まり」に何か意味があるのか、私はそのことに疑問を抱いていたので、その問い掛けを生徒たちに投げかけるのが目的だった。つまり「そこまで厳しくしなくても、自分たちの意志で何とかできる」という雰囲気を校内に作りたかったのである。
 その女の子が『ねらわれた学園』を読んでいるだろうと私は目星を付けていた(別に図書カードとかをチェックしていたわけではないぞ。当時の「本好き」の子なら、たいていは文庫になったばかりのこの本を読んでいたのである)。予測は違わず、私の思惑はちゃんとその子に伝わったのである。そのときの彼女の微笑は忘れられない思い出になった。中学生に腹芸なんてできないだろうと考えるのは大間違いなのである。
 私たちの「計略」は効を奏して(会議の内容は生徒に全部公開されている)、我々が生徒会をしていたころの母校は、その前後の年に比べると風紀の乱れは随分と抑えられるようになった。その子は知的で、けれど勉強ができるのを鼻にかけたようなところはなく、相当な美人でもあったので、「あの子が頑張ってるならちっとはマジメにするか」という気分になった男子生徒も多かったようだ。
 私は私で、この件をきっかけにその女の子ともちょっとだけ親密になることができた(本の話をするようになっただけである。誤解なきように)。全く中学生のナンパというのは可愛いものである(^_^;)。

 話が横に逸れたが(^o^)、今回の新版、新たに作者眉村卓の前書きが付け加えられ、挿絵を『ブギーポップ』シリーズの緒形剛志が担当している。
 眉村氏は「主人公と反対側の敵対者とか、直接かかわりがなさそうな人物の身になって、そうした目から見ればどうなるか、という読み方もしてほしい」と書いている。「敵対者」は高見沢みちろや京極少年のことを指しているし、「直接かかわりがなさそうな人物」とは耕児の父親などだろう。中学生のころには気が着かなかったが、読み返してみると耕児以上にみちるや京極、耕児の父を描く眉村さんの筆致に熱いものが感じられる。
 「お前たちの戦いは、一時に高まった闘志によって盛りあがった、言わば短期的なものにすぎない」
 これは全ての戦いが終わったあとに父が耕児に語った言葉だが、こんなに「重い」とは中学生の時には気がつかなかったな。現代の「オトナの」運動家たちもこのセリフの意味をちょっと考えてみたらいいように思うが。
 緒形さんのイラストは、もう高見沢みちると楠本和美の魅力を満喫するに尽きる(京極さんもちゃんと楽しめます。女の子たち向けに念のため)。みちるはもうまんまマンティコアなんだが、一見ごく普通の正義漢に見える和美の「予感よ。私の、ただの予感」というセリフのシーンをちゃんとイラスト化してくれているのがスバラシイ。女はどんなにフツーに見えてもやはり魔物である(^o^)。

 それから「阿倍野」という地名で今回初めて気がついたんだが、これ、大阪での事件だったんだね(眉村さんは大阪出身)。共通語で書かれてはいるけど、これは「翻訳」されたものなんだろう(^o^)。ということは、みんなホントは大阪弁で言いあってたわけだ。
 和美は実は「予感や。ウチの、ただの予感」とか言ってたワケやね。高見沢みちるだけは大阪にいても共通語使ってそうだけど。今度ドラマ化するなら、原作通り大阪を舞台にして作ってみたらどうだろうか。 

 講談社のジュブナイルは、更に8月から書き下ろしシリーズの「ミステリーランド」を創刊するようだ。第1回配本として、小野不由美『くらのかみ』、殊能将之『子どもの王様』、島田荘司『透明人間の納屋』が広告されている。
 ミステリー、SFの最先端はもしかしたらこうしたジュブナイルから生まれてくるかもしれない。

2002年07月25日(木) 本当にあった怖くない話/『くっすん大黒』(町田康)/DVD『ミニパト』ほか
2001年07月25日(水) 福岡腰痛クラブ/『庵野秀明のフタリシバイ』ほか



↑エンピツ投票ボタン
日記の表紙へ昨日の日記明日の日記

☆劇団メンバー日記リンク☆


藤原敬之(ふじわら・けいし)