無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2003年06月13日(金) ある正義の死/『日本庭園の秘密』(エラリィ・クイーン)

 実は今日は、前に書いた、「余興」を披露する日であった。
 まあ、詳しいことは職場の内部事情に属することなので(ホントかよ)ちょっと書けないんですが、やや物議を醸しちゃったようです。バカやり過ぎたんですね。若い連中にはウケてましたが。
 いや、たいしたことはやってないんですよ、コスプレして「白鳥の湖」踊っただけですから。白鳥の首が腹んとこからニョキッと生えてたのがまずかったのかなあ。あくまで腹の上で腹の下じゃあないし、腰も動かさなかったんだけど。
 まあ、職場に対するストレスが溜まると、たまにこういうバカもやりたくなるってことで。


 しげが父に低反発枕をプレゼントに買っていたので、父の店に行く。
 プレゼントを渡してすぐに帰るつもりが、ちょうど店がヒマだったので、散髪させられる。
 散髪中、二人して北朝鮮の悪口などを言い合う。相変わらず口さがない親子なんである。
 帰りしなに明後日の夕食に誘われる。さあ、これで一食分、お金が浮いた。これなら明日、しげを誘って映画に行けそうである。


 俳優グレゴリー・ペックが昨12日に老衰で死去。享年87。
 厳密に言えば私の両親の世代のスターなので、私自身はそれほど思い入れはないのだが、それでも片っ端から映画を見てれば自然と10本以上は彼の映画を見ることになる。リアルタイムで見た最初の映画は『オーメン』だろうが、これとてもう27年も昔の映画だ。当時、名優グレゴリー・ペックがこんな安っぽいホラー映画(あくまで当時の第一印象です)にも出るのか、と驚いた記憶があるから(あるいはそれは母の述懐であったかもしれない)、それ以前に名前くらいは知っていたのだろう。少なくとも『ローマの休日』はもう見ていたと思われる。
 ところがその誰もが名前を挙げる『ローマ』にしたところで私の関心は専らオードリー・ヘプバーンに向いていたし(男ならたいていそうであろう、あとは脇役でカメラマンのエディ・アルバートが好きだったね)、初期の『白い恐怖』はイングリッド・バーグマンの美しさに専ら見惚れていた。晩年の『私を愛したグリンゴ』に至っては、ジェーン・フォンダのヌードしか覚えていない(^_^;)。
 いかにもヒーロー然としたペックの風貌と演技には、女と悪役を偏愛する私には引っかかるものがほとんどなかったのだろう。もちろん「そういう人」がいなければ映画が成立しないことは承知していたのだが。
 確かにカッコイイ人ではある。『ローマの休日』のラストシーンで、ポケットに手を突っ込んで無造作に去っていく彼をアオリのアングルで捉えたときの「足の長さ」はえらく印象に残った。アレが「長い足はカッコイイ」ということを私に認識させた最初の記憶ではなかったか。
 足の長さに反発したわけではないが、アメリカ流の正義とか民主主義とかに子供の頃から反発みたいなものを覚えていた私にしてみれば、彼の「カッコよさ」にも何かしら欺瞞のようなものを感じていたのだと思う。もちろん、私生活では敬虔なクリスチャンであった彼自身はきっと誠実な人だったのだろうが。
 同じくアメリカの民主主義を代表しているように見えても、どこかイラついてて腺病質に見えるジェームズ・スチュアートや、無骨で融通の効かなそうなヘンリー・フォンダの方が私の好みだった。その点、ペックはいささか「カッコよ過ぎ」たのである。
 そう言えばある掲示板で、ペックを追悼しながら、その代表作として、『ローマ』のほかに『めまい』や『北北西に進路を取れ』を挙げている人がいた。しかもその掲示板の誰一人としてその間違いを指摘していない。若い人なんだろうが、ちょっとこの間違いはひど過ぎないか(念のために書いておくが、『めまい』の主演はスチュアートで、『北北西』はケイリー・グラントである。始終スケベったらしいグラントと間違えられるとは!)。
 けれど、ちょっと冷静になって「いかにもヒーロー」なペックのアメリカ映画における立ち位置を考えてみると、この勘違いも仕方がないようにも思えてくる。ヒーローを演じようとしてもどこか滑稽に見えてしまうジョン・ウェインには彼は決して間違われないのだ。
 そう思うとき、さほど思い入れのなかったはずの彼の死の大きさが私にもようやく見えて来る。アメリカが失ったものは白井佳夫が指摘しているような「民主主義」の代弁者ではなく、映画の持つ真っ直ぐなカッコよさではなかったか。ヒーロー映画は作られる。主人公の苦悩も昔と変わらぬように描かれる。けれど、その苦悩を乗り越える力をペックほどに感じさせてくれる俳優が彼以後、どれだけいただろうか。『スーパーマン』のクリストファー・リーブも『バットマン』のマイケル・キートンも『スパイダーマン』のトビー・マクガイアもみんな弱っちく見えないか。『白鯨』をモチーフにした『ジョーズ』のロバート・ショウはどうだったか。
 理屈抜きの、批評することを拒絶した、単純なスターへの憧れ。もはやアメリカはどこか屈折した形でしか映画を見られなくなっているように思う。


 エラリィ・クイーン『日本庭園の秘密』(大庭忠男薬/ハヤカワ文庫・819円)。
 エラリィ・クイーンの国名シリーズの最終作……と言っても実はクイーン自身からそうは認定されていないこともミステリファンには周知の事実。でもまあ、この日記を読まれる方にはその辺の事情をご存知ない方もおられるだろうから、簡単に。
 この小説の原題は“The Door Between(間の扉)”と言い、「日本」という単語は冠されていない。しかし雑誌掲載時には“The Japanese Fan Mystery(日本扇の秘密)”というタイトルであって、『ローマ帽子の秘密』以来の国名シリーズを踏襲していた。変更の理由は、原作発表時の1936年という第2次大戦前夜の時代背景が影響しているということだ。それまでの長編には必ずあった「読者への挑戦状」も省かれているし、エラリィの決めゼリフ「Q.E.D.」もない。
 しかし、この小説のタイトルは絶対に『日本扇の秘密』でなくてはならない。それは本作に他の国名シリーズ以上にクイーンの日本趣味が横溢しているからであるのだが、それだけではない。たとえ「日本」と謳っていても、『日本庭園の秘密』や『日本庭園殺人事件』(石川年訳・角川文庫)や『ニッポン樫鳥の謎』(井上勇訳・創元文庫)ではダメなのである。その点では今回の新訳も、原作タイトルの意味を理解していない、と言える。
 実は、本作には「日本扇」は全く登場しない。翻訳者たちが首を傾げつつタイトルを変更しただろう事情は、創元版の脚注であの最低訳者の井上勇が「内容とはあまり関係がない」と書いてることからも見当がつくのだが、これは実際の扇を指すのではなく、「寓意」としてのタイトルなのである。
 「扇」は何に使うものか。風で仰ぐものでしょ? と答えてしまってはその寓意は掴めない。日本の古典世界において、扇は「人の顔を隠すもの」であった。特に女の。本作の登場人物たちはみな、見事に自らの「顔」を隠している。探偵エラリィ自身が「単純に見えてこんな複雑な事件はない」と、最初ネを上げかけるのは、主要人物たちの本当の顔が見えてこないせいであるのだ。まさしくミステリ中のミステリを象徴するようなタイトル。これを「樫鳥の謎」などと改題した井上勇のマヌケさには、腹立たしさすら覚えてしまう。

 日本贔屓の閨秀作家、カレン・リースが、日本庭園を望むニューヨークの自邸で怪死を遂げる。癌研究の大家、ノーべル賞受賞学者のジョン・マクルーア博士との結婚を控えていた彼女に、いったい何が起こったのか? 現場は窓に鉄格子がはめられ、屋根裏部屋へ通じる扉には鍵が内側から差し込まれ、入口の扉の見える居間にはずっとマクルーア博士の娘、エヴァがいた。
 誰も入れるはずのない「密室」の中でカレンは殺されたのである。“もしもエヴァがカレンを殺したのでなければ”。
 容疑をかけられ、パニックに陥るエヴァ。なぜかエヴァを助けようと策を弄する私立探偵、テリー・リング。固くなに証言を拒む琉球人のメイド、キヌメ(漢字で書くと「絹女」か?)。それぞれに秘められた思惑を暴き、隠された真実を解き明かすべく、エラリィは、父親クイーン警視とも対立しつつ捜査を進めて行く。
 謎を解くキーワードは「ニッポン」。そして最後の決着をつけるマクルーア博士とエラリィとの頭脳比べ。果たして勝利の女神はどちらに微笑むのか。日本人ならずとも、これだけワクワクさせるプロットを持ったミステリは滅多にない。

 ところがこれが、以前読んだ創元版では(角川版は未読)、例の悪訳のせいで実につまらなかったのだ。今回の新訳と引き比べてみると、訳文を見ただけでも明らかな誤訳と思われる部分が随所にあり、時には段落を一つ飛ばして訳しているところまであった。キャラクターの描き分けをセリフで工夫することもしていないし、ともかく読みにくい。以前も書いたが、クイーンの評価がクリスティーに比べると著しく低いのは、この悪訳のせいである点、非常に大きいのではないか。

 一例を挙げる。カレンを発見した時のエヴァとテリーの会話の部分である。

A〔創元版・井上勇訳/99ページ〕
 「ひまがない」褐色の男は低い声でいった。「そのほうがまだましだ ―― あんたは泣いていたように見える。あちらでは何に手をつけた?」
 「なんですか」
 「なににさわったかというんだ。さあ、早く」
 「机と」エヴァは低い、ささやくような声でいった。「窓の下の床と、おお」
 「なんたるこった」
 「わたし、すっかり忘れていたわ、あることを。ぴかぴか光る宝石の飾りがついた鳥の形をしたもののことを」
 エヴァは、またもや、男から平手打ちをくらおうとしていると考えた。それほどに男の目は熱っぽく、狂気じみていた。「鳥、宝石。なんたることだ。よく聞くんだよ。あんたは、その口をしっかり閉じておくんだ。ぼくのいうとおりにするんだよ。泣きたければ泣くがいい。卒倒してもいい。好きなだけ醜態をさらしていい。ただ、しゃべりすぎてはいかん」
 男にはよくわからなかった。鳥とは。鳥のお化けとは。「でも ――」

B〔ハヤカワ版・大庭忠男訳/109ページ〕
 「時間がない」褐色の男は小声で言った。「とにかく、そのままの方がいい ―― 泣いていたように見える。寝室では、なんに手をつけた?」
 「え?」
 「なんにさわったんだ? 早く言え!」
 「机」エヴァは、ささやき声で言った。「窓の下の床。あ!」
 「なんだ?」
 「忘れてたわ! あるものを。ピカピカ光る石のついた鳥を!」
 エヴァはまたぶたれるのではないかと思った。それほど彼の目は怒りにもえていた。
 「鳥。石。なにを言ってる! いいか。その口をあけるな。おれの言う通りにするんだ。泣きたけりゃ泣いてもいい。失神してもいい。なんでも好きなようにやっていい。ただ、あんまりしゃべるな」
 男にはわかっていなかった。鳥とか、半分の鳥のことは。「でも ――」

 一読して、どちらがわかりやすいか歴然としているとは思うが、いくつか注を。
 まず全体的にテリーの口調がAとBとではまるで違う。テリーは下町のしがない私立探偵だから、ノーベル賞受賞学者令嬢のエヴァとは立場がまるで違うのである。粗野で乱暴なBの方がずっとキャラクター性が表されているし、一人称だって、「ぼく」より「おれ」のほうがずっと自然だ。
 Aのエヴァの「なんですか」は、多分、“What?”の訳だろうが、死体発見の現場で相当焦ってるだろうに、エヴァも随分のんびりした聞き方をしているものである。Bの「え?」のほうが簡潔で正解。
 Aのテリーの「なんたるこった」は明らかに誤訳。エヴァはまだ何に触ってしまったのか、言い終わっていない。なのにもう驚くなんて、テリー、おまえはテレパスか。「なんだ?」と問いかけているBの方が正解だろう。
 エヴァが触ってしまった「鳥」というのは、この段階では何のことだか分らないが、実は凶器に使われたと思われるハサミのことである。日本製で、ハサミの両刃が鶴のクチバシに模されていて、それのネジが取れて片方だけになっていたのである。
 Aではこれを「鳥のおばけ」、Bでは「半分の鳥」としており、訳が全く違っているが、原書ではどうなっていたのだろうか。断定はしかねるが、元の単語は“freak”とかなんとか言ってたのではないか。つまり、クチバシが半分になって欠けている鶴を「奇形」と例えたのである。それをAは「お化け」と訳したのだろうが、これじゃ何のことだか訳がわからない。まだしも「かたわの鳥」と訳した方がしっくり来るが、Bの方はそれでは表現的に問題があると考えて、実質的な意味として「半分」と訳したのだろう。
 どうもこの比喩自体、Aの訳者には意味がわかっていなかったような雰囲気がある。その前のセリフでテリーは「なんたることだ」と言っているが、エヴァがパニックに陥って「ハサミ」という単語が思いつかずに「鳥」としか言えなくなっている状況を見ているのだから、Bのように、「なにを言ってる!」と戸惑うのが自然である。いったいAのテリーは何にアタマをかかえているというのか。
 こんなのはほんの一例に過ぎず、Aの方はこんな愚訳がページをめくるたびに頻出するのだ。全く、「適当な訳してるんじゃねえや」と怒声を浴びせたくなる。文章の「わかりやすさ」という点では、このようにどうしてもBの方に軍配が上がるのである。
 
 とは言え、Bの訳に問題がないわけではない。
 例えば、引用される人名について、訳者が知らないと勝手に名前をカットするということをやってのけている。Bの285ページで、マクルーア博士が結婚しても別居生活をしようと主張していたカレンを評して、「新しがリやの女優をまねた気まぐれ」と語る記述があるが、これがAの259ページと比較すると「リューシー・ストーナーふうの気まぐれ」と書いてあるのである。実は「リューシー・ストーナー」という女優は存在しない。これはルーシー・ストーン(1818-1893)という19世紀の女権拡張論者のことを踏まえた記述なのである。つまりこれはAもBも誤訳。正しくは「女権拡張主義者のルーシー・ストーンをまねた気まぐれ」か「ルーシー・ストーン主義者をまねた気まぐれ」としなければならない。こういう知識的なことはちゃんと調べて書いてもらわないと、本当に困る。
 また、先の例でもわかるが、Bの訳では差別的に思える表現を極力抑えている。ところが、どうもそれがやり過ぎの感が強いのだ。
 Aの28ページ「スコット医師は、片目で、あたりをちらりと見まわした」がB30ページでは「スコット医師は、ちらりとあたりを見まわした」と、「片目で」がカットされている。別にこのスコットは目が潰れているわけではない。単に片目をつぶっていただけのことだ。それをいちいちカットする神経過敏ぶりはどうだろう。
 Aの175ページにはクイーン警視に「ジャップ」と言われたキヌメについて、「キヌメは、またおじぎをして、警視の不注意な代名詞などは気にもかけないようすで、落ち着きはらって階段をおりて行った」との記述がある。これがBの194ページでは、「キヌメはふたたびお辞儀をして、静かに階段をおりて行った」と、「警視の不注意な代名詞」の部分がカットされているのだ。
 これなどは逆に差別を助長しかねない、全くバカな措置だろう。「ジャップ」が日本人に対する侮蔑的な意味を表すことを説明している部分を削除してしまっては、事実を知らぬ人間にとっては、これが普通に日本人を指す言葉だという誤解を与えてしまう。これなどは、作者クイーンが戦前の反日の風潮の中で、それでも日本に対する一方的な偏見を持ってはいなかった何よりの証拠になるではないか。
 こういう例が本書にはほかにも随分ある。これが「言葉狩りの弊害」なのである。判断力のないバカに差別を語らせちゃいかんよ。
 翻訳のことを語りだすとキリがないから、この辺で切り上げるが、こうなると結局、「そんなに訳に不満があるなら、英語を勉強して原書で読めば?」ということになってしまうのである。そんなヒマがあるかい(でもこれは本当に原書で確かめられるものなら確かめたいのだ)。
 多少の誤訳は私は気にはしない。「訳文を読んだだけでも誤訳だとわかるような稚拙な訳」が問題だと言ってるんである。
 このことは先日、よしひと嬢にも話したのだが、「翻訳者である前に、作家でないといけないですよね」と仰っていた。蓋し、至言であろう。
 
 翻訳のミスを割り引いて考えれば、クイーンへの評価は格段に上がると思う。しかし、この『日本扇の秘密』が大傑作かというと、そこまで言えないのもまた事実である。
 トリックも既成作品に依拠しているものがあるし、何よりある人物の心理の過程に不自然さがありすぎる(誰かは書けんが)。読了したあと、どうにも「しこり」が残るのである。
 けれどやはり私はこの小説が好きだ。日本知識をひけらかす作者クイーンの稚気がこれだけ感じられる作品も滅多にない。カレンの書いた小説のタイトル『八雲立つ』のタイトルはもちろんラフカディオ・ハーンの筆名、元をたどれば日本最古の和歌と伝えられる「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」(素戔嗚尊)から取られているし、スコットがエヴァの足にフェティッシュな執着を見せるシーンなんか、まるで谷崎潤一郎の小説である。クイーンが谷崎を戦前に読んでいたかどうかは定かではないが、クイーン編によるアンソロジー『日本文芸推理12選&ONE』では谷崎の『途上』を選出しているから、もしかして以前から作品に親しんでいた可能性はある。

 長くなったので続きは明日。

2002年06月13日(木) 暗い木曜日/『名探偵コナン』37巻(青山剛昌)ほか
2001年06月13日(水) とんでもございません(←これも誤用)/『少女鮫』6〜9巻(和田慎二)ほか



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