無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2002年11月10日(日) 永遠という名の魔女/『おジャ魔女どれみドッカ〜ン!』40話/『ギャラリーフェイク』26巻(細野不二彦)

 毎回感想を書いてたらシンドいので、たまに見ても朝の特撮やアニメについては省略することはできないのだが(それでも毎回やたら書いてるよな。更新が進まないはずである)、今回はそうもいかない。
 『おジャ魔女どれみドッカ〜ン!』40話「どれみと魔女をやめた魔女」、これまで「いい加減長く続きすぎてるんじゃないか」とか「どれみがオトナになっちゃったから『おじゃ魔女』っぽくなくなったよなあ」とか文句つけることの方が多かったが、自らの不明を恥じたい。断言するが、これこそテレビアニメ史上に残る傑作である。
 脚本は大和屋暁(やまとや・あかつき。名前でおわかりの通り、日活出身の脚本家で、言わずと知れた『ルパン三世』の大和屋竺氏のご子息である)、作画監督はキャラクターデザインの馬越嘉彦自らが担当、そして監督はもはや日本アニメの重要な一角を担っていると言ってもよい『デジモン』の細田守。シリーズ中の異色作ではあるが、これまでのシリーズの積み重ねがあったからこそ、これだけの作品を送り出すことができたのだ、と言うことができる。

 ある日の放課後、何となく遠回りして下校したどれみは、「未来」という名の美しいお姉さんと出会う。会った途端、どれみが魔女であることを見抜いてしまう未来さん。「マジョガエルになっちゃう!」と慌てふためくどれみだったが、実は未来さんも魔女であった。ホッとするどれみだったが、未来さんはもう魔法は使わないのよ、と言う。
 ガラス細工をしているという彼女に誘われて、ガラスのコップ作りにチャレンジすることになったどれみ。お礼に一週間前に越してきたばかりという未来さんを連れて、美空町のあちこちを案内してあげる。
 夕日を見つめながら未来さんは、止まっているように見えるガラスが、実は長い長い時間をかけてゆっくりと動いていることを語る。未来さんが何を伝えたいのかよくわからないのに、話せば話すほどに彼女の不思議な魅力にいつの間にか惹かれている自分に気付くどれみ。
 またある日、未来の所を訪れたどれみは、彼女が今まで出会ってきた人たちと一緒に写した写真を見せられる。その数の多さに驚くどれみ。その中には未来が「たった二日だけ」好きになりかけたという人との思い出の写真もあった。
 「どうして好きにならなかったの?」と問いかけるどれみに、「私、年上好みなの」とやや寂しげに笑って答える未来。そして、「同じ人とずっと一緒にはいたくない」とも……。
 そうして、未来はどれみとも思い出の写真を撮る。
 なかなかうまくいかなかったガラスのコップもようやく形になり、あとはゆっくり熱を冷ますだけ。
 そして、未来は「明日そのコップを取りに来て、あさってではだめ」と言う。それは、彼女が明後日には例の昔好きになりかけた人の元に行くからであった。その人は普通の人間、年は今はもう90歳を越していて、未来のことを未来の子どもや孫だと思って付き合っていて、未来自身もそれを演じ続けているというのだった。
 「こんな生き方をしてる魔女もいるの」と呟く未来は、どれみに衝撃的なことも告げる。
 「魔女の世界をもっと見たければ一緒に来て」。
 迷うどれみ。美空町のみんなと別れて、未来と一緒にたびに出てもいいのか。夕暮れの街を歩きながら、それでも未来さんへの思いを消せないどれみ。
 しかし、翌日、「未来さん、来たよ!」と彼女の家に飛びこんだどれみを待っていたのは、あの、一緒に撮った写真だけ。
 すでに未来の姿は無かった。
 「……どうして?」
 どれみの問いに答える声はない。

 抒情的である、という点でこれを傑作と呼ぶのではない。
 この作品のキモは、どれみが美空町を捨てようと決意したその一点に尽きる。
 単発のドラマではない、ここまでシリーズを続けておきながら、おじゃ魔女の仲間を捨ててまでどれみは未来さんについて行こうとするのである。見方によっては、これはこれまで『どれみ』という番組を応援してきた視聴者たちの思いを裏切る行為でもあるのだ。例えて言えば仮面ライダーがいきなりショッカーに寝返るようなものだ。ファンが怒り狂ったっておかしかない。

 けれど、リアルな現実として考えてみよう。
 人には、どんなに親しく付き合っている家族、友人、恋人がいても、あるときふと、それまでの人生を全て捨てて、どこかに行きたい、誰かに付いて行きたい、と思う瞬間があるものである。クスリをやったりシューキョーに走ったりただプイとジョーハツしたりしてしまう人がいるように。
 現実を生きる、ということは大なり小なり自分の中の何かを少しずつ犠牲にしていることでもある。それが酒瓶の中の澱のように溜まって行くのを感じる者は、それがたとえ破滅への道とわかっていたとしても、あえてその一歩を踏み出したいと思ってしまうのではないか。
 思えば、どれみはシリーズが重なるたびに「シバリ」をかけられてきていた。ぽっぷがいて、ハナちゃんがいて、いつまでもドジッ子のどれみのままではいられない。もうどれみも小学六年生なのである。
 でも彼女にはたった一つの人生しか与えられないのであろうか。本当にどれみが「生きて」いるのだとしたら、そのことに堪えられるのであろうか。
 誰もが思ったことだろう。「未来」というキャラクターは、もう一人のどれみのまさしく「未来」なのであると。
 どれみもいずれ、大人の恋をする。そのときの彼女が「未来」のように永遠の生を生きる存在になっているのかどうかはわからない。ごく普通の人間と同じく、年を取る魔女として、自分の夫となるべき人と年を重ねて行くのかもしれない。けれどそれはやはりたくさんの岐路を経てどれみ自身が選んで来た道であるはずだ。予定されていた未来などではなく。
 『おじゃ魔女どれみ』シリーズは最終的には予定調和のハッピーエンドで終わるであろう。最終回でどれみが再び未来さんを追い掛ける形で終わるとは思えない。だからこそ「40話」でどれみの「迷い」が描かれる意味があったと思うのだ。凡百の「魔女っ子もの」のルーティーンから外れることを承知で、どれみが選んだ道がたくさんの迷いの中から選んだ道であることを示すために。単に「異色作である」とか、「単発で見るとそれほどでもない」といった評価を下す人もいるんじゃないかと思うが、それこそ表層的なところしか見ていないと言えるだろう。
 これは『どれみ』における『ノンマルトの使者(ウルトラセブン)』なのである。

 未来さんの声は原田知世である。
 『幻魔大戦』『少年ケニヤ』の2作の声優経験はあるが、多分それ以外には声優として起用されたことはないのではないか。
 しっとりとして落ち付いた声で、この深みのある声は誰だと驚きながら初めは全く気付かず、テロップを見てひっくり返った。長らくブランクがありながら、なんとステキな女優に育っていたことか。原田知世が『時かけ』を越える瞬間に立ち会ってしまったのだ。
 今日は奇跡の日である。

 あまりに興奮してしまったので、できるだけ書き込みはしないでいようと思っていた山本弘さんとこの『SF秘密基地』に「な、なんだ今日のどれみはぁぁぁ!」と怒涛の書きこみ。ナカミはウチの掲示板に書いたのとだいたい同じである。
 一番感激した未来さんの「私、年上好みなの」というセリフについてはあえて触れなかった。全ての感動を書きつくそうとすることは、その感激を伝え損なうことにもなりかねない。きっと、語りたい人はいるはずだ、その人たちのために、このセリフに言及することは避けておこう。それに「もとネタ、泉重千代じゃん」なんてアホなツッコミするやつがいたらヤだな、という思いもあった。
 レスがどの程度つくか、と思ったが、一日で山本さんほかたくさんの書き込みがあって嬉しかった。やっぱり結構みんな見てたのね。私の想像通りのアホな書きこみをした人もいて、それには苦笑せざるをえなかったが(^_^;)。


 女優・范文雀さんが5日、心不全のために亡くなっていたことが8日に判明。享年54。『サインはV』のジュン・サンダース役があまりに有名だったために、若死になんだけれど「もうそんな年になっていたのか」という驚きの方が大きい。するってえと主演の岡田可愛もそのくらいの年になってるのか。私の世代の男なら、岡田可愛や吉沢京子あたりが「きれいなお姉さん」のイメージのベースになってると思うので、これもまたショックである。
 台湾出身の范さんがどうして黒人の役を? というのは当時スタッフの間でも疑問が出ていたらしいが、監督が范さんに惚れこんで人種なんか気にしなかったのか、范さんを売り出したかった事務所のゴリ押しか、単に黒人の役者が見つからなかっただけなのか。真相はともかく、まだ子供だった私はそんなの全然気にせず、ジュンを素直に「黒人」と認識してドラマを見ていた。逆に范さんが他のドラマに出演するようになったとき、「何で黒人じゃなくなったの?」とそっちのほうがビックリだった。

 訃報に関して誰も触れていないのが意外なのだが、ジュンの役は日本社会の中の混血児問題を「子供番組」レベルで展開していた、今思えばなかなかにハードな物語であった。池沢さとしのマンガ『あらし!三匹』にもミヒルという混血児キャラが登場して黒い肌をからかう人間に対する怒りを露にしていたが、米進駐軍の後遺症は60年代、70年代にはまだ深刻な問題として社会に影を落としていたのである。
 映画で混血児差別を扱った作品と言えば『キクとイサム』あたりが代表的なものだろうが、森村誠一原作の『人間の証明』あたりを最後にこの問題についてメディアが語ることは殆どなくなった。沖縄の米軍による少女暴行事件などを考えれば、この手の問題が消え去ったわけではないのだが、メディアは露骨にそういう日本社会の闇の部分を隠蔽する方向に進んでいったのだと言わざるを得ない。『ガンダム』のリュウ・ホセイが初期設定の黒人から白人(?)に変更されてしまったのも一つの例か。
 キレイゴトだけで日本には差別の問題なんて何もない、というポーズを取ったほうがいいのか、こういう問題を掘り起こした方がいいのか、単純にどちらか一方に決めつけることはできない。なにせ「キクとイサム」の主演の二人はこれが「実録」であったために映画出演後かえって迫害にあって、消息不明になってしまったのだから。
 しかし、この「隠蔽」が、米軍が行ってきた非道や、今も続く日本人の他人種に対する差別意識を、意図的に日本人の心の中から抹消させていった政治的な配慮であることも事実である。『サインはV』はまだスポーツもののオブラートに包まれている分、DVDとして復活することが可能であったが、『あらし!三匹』などは恐らくミヒルが「ブラック・ムスリム」に傾倒している描写などもまずいのだろう、未だに復刻されない。
 エンタテインメントとしてのドラマにあまり堅苦しい話題を持ちこむのは野暮ったいのだが、語り方の難しさはあるとしても(何しろ日本人の大半はものごとを極端に単純化しないと理解できない)、ジュン・サンダースが『サインはV』の中でどういう位置にあったか、それに触れた記事が少ないのはそれはそれで違和感を感じるのである。「骨肉腫に侵され、志半ばに倒れる悲劇のヒロイン」ってことしか書いてないけど、病気のことだけがクローズアップされるのはどうだかなあ。「生まれも不幸で死ぬのも不幸(本当は不幸ではない人生だったと視聴者に思わせたいにしても)だなんて、そんな理不尽なことがあっていいのか」と、我々は当時、まずそのことをあのドラマから感じながら見てはいなかったか? でなければ、病に犯される以前からジュンが憂いに満ちた表情を見せていたことを、我々はどのように受け留めていたと言うのだろうか。

 范さんの話が横ちょにいってしまったが、『サインはV』後、范さんはやはりどこかミステリアスな雰囲気を漂わせる役柄を演じることが多かったが、ジュンを越える役を演じることはついぞなかった。
 私が印象に残っているのは1978年の「横溝正史シリーズ」中の異色作『夜歩く』のヒロイン、古神八千代である。
 夢遊病患者という設定の、今だったらなかなかドラマ化しにくい役だったが、まるで坂口安吾の『不連続殺人事件』を想起させるような奇人たち(このキャストがまた他の作品には見られぬほど異色である。谷隼人・南風洋子・村井国夫・原泉・菅貫太郎・岸田森・伊藤雄之助といったクセのある面々)の中にあってヒロインを務めるにはただ楚々とした美人では無理である。范さんの個性は八千代役によくあっていた。言い返れば范さんのような逸材を日本の映画界はやはり死蔵していたと言える。


 休日なので1日かけて日記書き。少しは書き進められたがほとんど焼け石に水である。適当なとこでまたワープせにゃならんかなあ。
 晩飯は近所の福一ラーメン。あまり遠出したくなかったので、あまり美味くはないのだが近場ですませた。
 棚に『少年マガジン』のバックナンバー36・7合併号が置いてあったので、しげに『コータローまかりとおる!L』の最終回を読ませる。と言っても打ち切り、掲載誌移行なので、厳密な意味での最終回ではないのだが。
 「なんだ、ウチキリじゃないじゃん」としげは「ダマされた」ってな顔をしているが、連載が別の形で続くとしても、本誌で打ち切りになったという事実は変わらない。連載前読切時代からのファンとしては寂しい限りである。


 マンガ、細野不二彦『ギャラリーフェイク』26巻(小学館/ビッグスピリッツコミックス・530円。
 しかしこれが26巻もネタが続くとは思わなかった。名実ともに細野さんの代表作になっちゃったけど、もう、『どっきりドクター』や『猿飛』みたいな少年マンガの世界には戻ってこないのだろうか。

 巻頭の『ちゃぶ台の値』、わざわざ平仮名でタイトルつけてるけど、読者に読めないだろうという配慮だろうか。「ちゃぶだい」とキーボードに打ち込むと、即座に「卓袱台」と変換してくれるんだけど。でも本編で語ってるとおり、今時卓袱台使ってる家庭はホントになくなっちゃったんだろうから仕方ないのかな。
 「ちゃぶ」というのは中国語で「飯」の意味である“cha‐fan”ないしは“cho−fu”が訛ったもの、と辞書にある。明治期、横浜・神戸で外国人相手に開かれていた小料理屋を「卓袱屋」と称したと言うから、世間に普及したころは結構ハイカラな響きだったのだろう。泥棒の隠語で「売春婦」という意味にも使われてたそうな(^_^;)。
 こういう庶民文化にも「美」を見出す視点は嬉しいのだが、結局はゲストキャラにとっての価値しかない、みたいなところでドラマを収束させちゃうとなんか物足りない印象がしてしまう。消えてしまったの調度と言えば、卓袱台だけではなく、蚊帳や蝿帳や水屋や茶箪笥や煙草盆や豚の蚊取り線香立て、ほんの二、三十年ほど前にはありふれていたものが今はもう見られなくなっているのである。短編だけにどれか一つに話題を絞らないといけないのはわかるが、文化は一つのものに象徴させて語れるものではない。桃山文化を茶器だけで語っちゃヘンだってことと同じである。
 『誓いの錠』は『チビ太の金庫破り』を換骨奪胎してるし、どうも今巻の話はどこか「借り物」めいている。そろそろネタ切れなのかな、細野さん。30巻くらいで区切れよく終わったほうがよくはないかな。そしてまた少年マンガの傑作をどうか一つ。

2001年11月10日(土) AIQ機動!……いや、とっくにしてるんだけども/『不死身探偵オルロック』(G=ヒコロウ)ほか
2000年11月10日(金) 今日は本読みすぎて感想書ききれない/『クトゥルー怪異録』(佐野史郎ほか)ほか



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