無責任賛歌
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| 2002年02月21日(木) |
アホがアホを教育したってねえ/アニメ『七人のナナ』第7話/『鉄鋼無敵科学大魔號改』(唐沢なをき)ほか |
仕事に余裕が生まれてきたので、本もちょっと読めるようになってきた。 マンガも好きだけど、やっぱり基本的に私は活字中毒なんである。
晩御飯は、ほっかほっか亭のほか弁。 つくづく自分とこで料理作らん家庭だなと思うが、私が主婦なら、安上がりでうまい料理を毎日作ったって、飽きたりしないんだがな。 私は野菜いためとハンバーグ&ミニカツ弁当、しげはビーフ弁当とチキン南蛮。全部平らげて言うのもなんだが、もう少しあっさりした弁当ってないのかな。
アニメ『七人のナナ』第7話「夜食モグモグ! 料理勝負も受験のために?」。 もちろん、「今川泰宏監督」でもって、「料理勝負」と来れば、アレを思い出さないわけにはいくまい。 そうっ! 「味皇様」であるっ!(^o^) ……実はちょっと期待しちゃったんだけどね、突然、謎の老人が乱入してきて、ナナの料理を食べるやいなや、宇宙空間にワープして「うまいぞぉぉぉぉぉぉぉぉ!」……んなことするワケないって。 でも、「夜食勝負」とかテーマを設定するあたり、確かに料理マンガっつーか料理ドラマの基本を作っちゃったんだよね、アレが。 熱を出して倒れたナナに代わって学校に行ったナナっち、その日の調理実習で、神近くんに食べてもらおうと意気込んだはいいものの、完成した料理をテーブルに運ぶ時に、木枯、林葉、森沼の3人組に足を引っかけられて、せっかく作った料理を床にぶちまけてしまった。 そこでナナっちは、一週間後に3人組と料理勝負をすることになってしまうのだけれど……。
ナナたちに頼んで、全国から一流の素材を集めて……って、こないだの『009』とおんなじ筋やがな。けど、その食材が間に合わなくって、ナナっちが使える食材はお米と卵だけ。 フランス料理をこっそり取り寄せてた3人組には勝てそうもない……ところが、その残された食材だけで作ったおにぎりと卵焼きこそが「夜食」にピッタリ、ということで、勝負はナナっちの勝ち。
まあ、オチの見えた話ではあるんだけれど、主役をオリジナルナナからナナっちに移してるところがミソかな。多分これからそれぞれのナナが主役のエピソードを積み重ねて行くんだろうけれど、ちょっと小ぢんまりとまとまってきてるような印象だなあ。今川監督のファンはもう少し破天荒な展開を期待してると思うんだけど。
ああ、つい『キャプテンウルトラ』と『サクラ大戦』見損ねた。 いや、絶対見なきゃならんほどじゃない番組だけどさ、『サクラ』見てるとね、横山智佐って声優として未来がないような気がして、つい同情して見ちゃうのよ。 CSファミリー劇場『南くんの恋人』第2話。 先週の第1話の感想も書いてなかったなあ。 悪口書きまくると思ってる人、いるでしょう(^^)。 なんたってよう、この番組に出てる○○○○がよう、チバレイに○○○○○○○○○○○○○○、チバレイ、役者を引退しちゃったんだもんなあ。 私に悪口以外の何を書けというのか。 しかし主演の高橋由美子、芝居へったくそだなあ。 いや、他にうまい俳優がこの番組にどれだけ出てるかってと言やあ、その通りなんだけれど、それにしてもヘタだ。顔だちはそう悪くないのに演技力のなさで損してるよなあ。……後に『ショムニ』で色モノに行っちゃったのもわかるような。
『ここがヘンだよ日本人』、もうすぐ最終回ってことで、なんか「ここヘンサミット」とかいうのを先週から放送してるけど、ある意味、総集編だってのに実につまんない。 最初は、日本人のヘンテコさをホントに外人さんたちに指摘させる感じの番組だったんだけど、集まって来る外人さんたちがどんどん「ヤラセ」っぽくなっちゃったもんねえ。 疑いの眼でモノを見るのはよくないことかもしれないが、あの苛められたって女の子の演技っぽさはなんなんだろう。 東洋系にしか見えないアメリカ人が「鯨は人間より頭いいんだよ!」とアタマの悪い発言をするのはなぜなのか。 「ホモは精神病」と、医学的知識を無視して叫ぶアフリカ人たちは「黒人は白人より種族的に劣る」と言われたら納得するのか。 ノストラダムスの大予言を外した連中が新たに解読をし直して平然としてられる神経はなんなのか。 これが単に出てる外人たちがのきなみアホだってんならまだいいんだが、そういうキテレツな言動で視聴者を面白がらせてるつもりなら、芸としてはちょっと低劣すぎないか(この「低劣」というのは番組自体が「下らない」とか「下劣」という意味ではなく、製作者が視聴者のレベルを低く見積もってるって意味である)。 ま、終わる番組だから別にいいけど。
夜、チャットをしていてマンガ家のねこぢるさんの話題になる。 マンガ家の死に方でどうにもやりきれないのは、自殺と過労死だと思う。チャットでは自殺の原因はラリってたからじゃないかと推測されてた方がいたが、ラリってても死にたくなる人とそうでない人はいるだろう。 夫のねこぢるyさんがそのあたりの事情を黙して語らぬだけに、何となく推測することも憚られるが、あんなに世間の悪意に敏感な人は、自分自身の悪意ゆえに死の道を歩むこともあるのだろうか、という気がしている。 憎まれっ子世に憚るではないが、世に永らえる者の多くは、自分自身の悪に無自覚であることが多い。それを我々もまた気付かずに「善人」と呼んでいるのだ。 世の中、もちっと悪人が増えててくれたほうがいいんだがな。
夜から雨が降る。 本を買いにブックセンターホンダへ。 今月、やたらとモノイリがあるってのに、本ばっかり買ってていいのか。む
マンガ、唐沢なをき『鉄鋼無敵科学大魔號改』(講談社・735円)。 タイトルだけだと見逃しちゃいやすいんだけれども、『鉄鋼無敵科学大魔號』の続編。だから「改」なわけだね。 この「改」って、やっぱりルーツは『紫電改のタカ』あたりになるんかな。若い読者(いるんかそんなん)のためを考えると、この「紫電改」についても詳しく述べねばならんのだろうが、そんなん原稿用紙100枚使っても書ききれんわ。日本海軍の戦闘機の名前だということだけ知ってもらえりゃ、とりあえずタイトルからして唐沢さんがレトロなイメージを持ちこもうとしてるんだなってことがわかるであろう。 だいたいこの「大魔號」のデザイン自体、大阪万博で公開されたロボット「信介くん」をモデルにしている(現在は「ゆうばりロボット博物館」で見られるとか)。『オトナ帝国』のずっと以前に、「万博」をキーワードにしたマンガをさりげなく描いてるあたり、唐沢さんの着眼点のスルドサが感じられるね。 ……こうやって唐沢さんのマンガのもとネタ探しを始めたら、それだけで原稿用紙四百枚くらいかかってしまうのでやらないが(せめて「少年キッド」のもとネタが武内つなよしの『少年ジェット』で、「これはトクダネだわ!」の淀川ゆにこが『ウルトラQ』の江戸川由利子だってことくらいは解説せんでもわかってほしいんである)、もちろんネタがわかんなくったって面白いものは面白い。 あ、でも、東宝特撮映画『海底軍艦』を先に見てると、今回は面白さが倍増するかも(^^)。
レトロなモノが往々にして「ヘンテコ」に見えちゃうのは、その時代の価値観は、ほかの時代から見たらいつだって「ヘンテコ」だからなんであって、だったらそういうのを全部集めてもっとヘンにしましょ、みんなヘンならええじゃないか、という絶対平等の愛で唐沢さんのマンガは貫かれているのだ。だから楽しい。 あっ、でも関西ネタで間寛平の「あへあへ」をさせてたのはポーズが違うぞ。しかもネタ的に吉本新喜劇が東京進出した十年前以降のネタしかないもんなあ。「このへんでカンベンしといたるわ」も池乃めだかのネタだと思ってんじゃないかなあ、唐沢さん。あれ、もともとは花紀京のネタなんだが。 だいたい、「誰がカバやねん」の原哲男に触れずして吉本を語ってはならぬというのは吉本フリークの鉄則である。「船(せん)・場太郎です」も「いっいっいっいっいっ(木村進)」も「やめなはれ、やめなはれ、やめなはれ……やめろっちゅーとんのが○×△□……!(山田スミ子)」も唐沢さんはご存知ないらしい。 おかげで「ネタが古すぎるのだっ!」てのがギャグとして利かないんだよなあ。これだけはこのマンガで唯一白けたギャグなんだけど、これは北海道出身の唐沢さんにはムリな話だろう。不得意な分野でギャグをかますもんじゃないってことなんだよな。 考えてみたら、九州に生まれて何が得だったかって、関東と関西の番組が両方見られてたってことなんだよな。関東の落語も関西の漫才も子供のころから日常だった。『シャボン玉ホリデー』と『藤山寛美の3600秒』を同時期に見られてたんだもんねえ。 もしかして東京でも見られてた関西の番組って、マンザイブーム以前は『てなもんや三度笠』くらいのもんじゃなかったのかなあ。藤田まことだけはしょっちゅうクレージーキャッツの映画にゲスト出演してたし。 藤田まことと中尾ミエが婚約者同士で出演した時は東京・大阪・九州の笑いが揃い踏みしたことになるんだが、当時はお笑いの中に自分が入れられるのはイヤだったろうな、中尾ミエ。 ……なんか、唐沢さんのマンガとなんの関係もなくなってきたからこのへんでやめよう(^o^)。
マンガ、西岸良平『西岸良平名作集 蜃気郎�掘戞柄侏媼辧�300円)。 3巻で完結か。 せっかく新登場させた蜃気郎の妹、黒猫やまとが3話だけしか出てこないってのがちょっともったいない感じだけど、ダラダラ続いてもつまんないからこのへんが妥当なとこか。 それにしても「黒猫やまと」ってネーミングセンスはなんとかならんのか。「蜃気郎」がよくできてるだけに、このいい加減さがちょっとガックリくるんだよね。まあ、それが西岸さんらしいとこなのかもしれないけれど。
高木幹夫・日能研『自分の子供は自分で守れ 「学力」ってなんだろう 日能研はこう考える』(講談社文庫・580円)。 なっげータイトル。土曜ワイドか(^^)。 こういう副題がやたら長ったらしいのは、たいていの場合、読者・視聴者を「これくらい説明してやらないとわかんないだろうな」ってバカにしてるので、たとえその中味がどんなに胸を打つものであったとしても、あまり信用しちゃイカンのである。 ……とは言え、「円周率3.14が『およそ3』になる」キャンペーンを張った日能研、一気に「日本人の学力はどうなるのか?」と煽りたてて反作用的に「塾の必要性」を訴えることに成功しただけのことはあって、その辺のホンネはあまり表に出してない。 そのへんが巧妙っつーか、ちょっと卑怯だ。
中学までで教育は終わり、とする「完結教育」を選ぶか、中学は高校、ひいては大学進学のための準備、とする「進学準備教育」を選ぶか、今の親たちはそれを考えてない、とこの本の作者は述べてるが、親たちにそういう選択を任さないようにしてきたシステムについては、塾である日能研にも責任の一端があるのではないかねえ。 だいたい、親が「義務教育だけで教育は充分」と考えてる実体が、この日本の家庭にどれだけあるというのか。「円周率問題」では、生徒の学力低下を危惧する世論に追いたてられるように、文科省は「教科書の内容は最低ライン」と苦し紛れの言い訳をしたが、それで「あ、子供はこれだけ勉強したら、それ以上やらなくてもいいんだ」と納得した親なんていなかったぞ。
学力が低下したって、生きて行く上で困ることなんて、別に何もない。 しかし、日本の親たちはみんな、そんなふうには考えなかった。 「せめて高校だけは出ておかないと」。 「高校卒業の資格がないと、就職もできないぞ」。 「中卒なんて恥ずかしい」。 「たとえその教育の中味がどんなに社会的に無駄なものであろうと構わない、子供を高校・大学と進学させたい」。 そう考えたのが日本の親たちのホンネであるのだ。 2、30年前なら、そのへんにザラにいた、「別に高校の資格なんていらない商売をすればいいじゃないか。屋台引けよ屋台」ってな発想で子供を教育してた親は、今や日本のどこにもどこにもいなくなってしまった。 ……あのさ、3.14ショックっていうけどさ、私たちだって、最初に円周率を習った時は「3」って習ったんだよ。それを小学校高学年で、「実は3.14」って「覚えさせ直された」わけ。その当時「だったら最初から3.14って教えとけよ」って釈然としなかったこと覚えてるからね。 「『およそ3』についての学力低下」を叫ぶんだったら、もっと昔に言っとけよって。 学校五日制に対する親の不安だって、結局は「自分の子供だけが落ちこぼれて行くんじゃないか」というのがその正体なんだよね。逆に言えば、「自分の子供が抜きん出ることができるなら、学校五日制には反対でなくなる」ってわけ。 だから、今、学校五日制に賛成してるのは、ホントに数少なくなった「学校の勉強よりももっと大切なことが人生にはある。休みの日はどんどん遊べ」と考えてる親か、全く逆に「休みが増えればウチの子は自ら学んで勉強する。レベルの低い学校の授業を受けずにすんでラッキーだ」と考えてる親かの、両極端に分かれてしまっている。 でもそんな親は全体の1割。 たいていの親は「他人のことなんて考えてないエゴイスト」だ。 よく「自分さえよけりゃいいのか」とか「人に迷惑をかけるな」とか言って子供に説教タレる親がいるが、そういう親はそのセリフ自体が「平等」を装った「差別」であることに気づいてないもんね。自分がラッキーな立場に立ったら、絶対にこんなこと言わないんだからさ、こいつらは。 「子供のため」なんてことも親はよく言うけど、それは「自分の子供のため」であって、「みんなのため」じゃないのだ。あ〜見苦しい。
で、文科省は「そんなエゴイストの親は相手にできまへんわ。ウチラは『これだけの学力』しか生徒に提供せえへんさかい、後は塾で学ばせるなと、勝手にしなはれ」と今回の改訂で言い放ったわけだ。まあ、結果的にそうなったってことではあるんだけれど。 はい、そこに「塾」が付け入る隙ができちゃったわけですね。 日能研がズルイのは、タイトル通り、「子供の教育は親が考えろ、学校にまかすな」とは言ってるけれど、ターゲットにしてるのは「勉強なんていらないじゃん」って生徒じゃないってことなんだよね。 だって、「今時、中卒で就職できる企業なんてない」って事実を、この本の中じゃひとっことも触れてないんだから。 あえてそのことに「触れない」ことで(触れりゃ、それを解消する手段だって提示しなきゃなんないけど、「塾」がそれをするわけない)、親を「進学準備」のための「塾」に誘おうって魂胆だからね。 所詮は「塾」だって「商売」よ、当然なことだけどさ。
確かに、教育改革と行政改革が連動していないという知名的な欠点が今度の改訂にはある。中卒で教育過程を修了させるつもりなら、その時点で就職できる受け皿を、各官公庁がまず率先して広げてかなきゃなんないのに、全く逆にどんどん公務員は「狭き門」になってきている。 いや、だいたい「教科書の内容は最低ライン」とするなら、義務教育修了者は全員「満点」でないと卒業させられないことになるが、そこまで指示してるかね、文科省が。 結局、「文科省のやることは信用できない」というキャンペーンが功を奏して親たちはゾロゾロと、「塾へ塾へ」と流れる現象を生み出したわけだ。 けどさあ、この本でもチラッとだけ触れてるけど、ここまで不況が続いちゃうとさあ、「学歴」ってやつがどんどん意味なくなっていくんだよね。みんながみんな「せめて高校」「せめて大学」でゾロゾロ高学歴目指したって、結局は学力のアベレージが下がるだけで、結果的に「学歴」を無効力化することにしかならんわけ。 「分数ができない大学生」が問題になってるが「九九のできない大学生」だって量産されることになるわけだな。「学力低下」を心配するなら、そういう「社会状況」こそを心配せねばならんのだけどね。 だとしたら。 意外とこの杜撰な教育改革、文科省は故意にやってる面があるのかも知れない。 なぜなら、文科省は同時に「高校・大学の統廃合」も積極的に行っているからだ。 少子化のせいで誰もが楽して進学できるようになってきた。だからもっと高校大学を狭き門に、というのは分かる。けれど、狭き門にしたって、入って来る連中がやっぱり「みんな揃ってパープー」じゃ状況は改善されない。 休日に塾にも行かず呆けた連中と、そうでない連中とでは、当然、差がつくはずだ。「大多数の生徒の学力を低下させる」ことをすれば、「それでもなお休日を使っても勉強するやつ」はホントの実力者ってことになるのではないか。 「自発的なエリート」、これを文科省は生み出そうとしてるのではないか。
……んなわけないな。 だいたい、休日に親から塾に行かせられる子供のどこに本当の意味での「自主性」が生まれるかいって。エリートどころかエゴイストを量産するだけだわ。 行き当たりばったりの教育改革がどこへ迷走して行くか、これからが楽しみだねえ。
2001年02月21日(水) 買い物ブギ/『ブギーポップは笑わない』第1巻(緒方剛志)ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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