無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2001年12月12日(水) 鶏は卵を音を立てて生む/『獣星記ギルステイン』2巻(酒井直幸・田巻久雄)

 物まねの江戸家猫八さんが10日、心不全のため死去。享年80歳。
 なんかまた訃報が続いているなあ。
 代表作のように言われている『お笑い三人組』はうろ覚えの記憶しかないから、やっぱり印象に残ってるのは映画『お葬式』の不気味な葬儀屋だったりする。
 いや、もちろんものまね芸はちょくちょく演芸番組で見てはいたが、ドラマの中でその芸を披露することは少なかったから、若い人の中には猫八さんの芸を見たことないって人もいるんじゃないかなあ。
 今のテレビのバラエティがほとんどクソになり果ててるのは、こういう方々の芸の面白さを紹介する時間を設けてないってとこにも原因があることは確かだ。それに対して憤りを覚えてる一般視聴者がいてもおかしくないと思うんだけど、そんな意見がテレビ雑誌なんかの読者コーナーに載ったりすることもないよねえ。ホンモノの芸が見たいって思ってる人なんて、もういなくなっちゃったってことなのかな。
 今度の紅白にはドリフが出る。
 ドリフだって、私たちの世代に言わせればクレージーキャッツの足元にも及ばないんだけど(なのになぜかしげも同意見だが)、それでも今『ドリフ大爆笑』の再放送なんか見ると、みのもんたが出るバラエティもどきに比べりゃはるかに面白いんだものなあ。
 猫八さんの芸はもう忘れられていたと思う。
 ご本人がドラマの中でその芸を見せることを避けておられたようだが(それは訳者に徹するという清廉な態度ではあったろうが)、演出家にもっと頭があれば、ごく自然な形で猫八さんの芸を披露する脚本、演出も書けたのではないか。
 実は私は監督としての伊丹十三をあまり評価してないんだけれど、それは毎回「喜劇」を作っていながら、あの人が俳優に要求していたのは、「演技」であって「芸」ではなかったからだ。
 何が言いたいかっていうとさ、つまり、あれだけの役者揃えていながら、『お葬式』は「マルクス兄弟の喜劇」にはなりえていなかったってことなのね。一人一人の演技に「芸」というか「花」がないわけ。猫八さんの使い方もそうだが、菅井きんにあんなフツーの長ゼリフ喋らせてどうする。伊丹映画、どれも詰めのところで工夫がないのだ。
 ……なんか猫八さんを悼む文章になってないね。すみません。
 付け足しみたいだけど、鶏が卵を「ぽこ」って音を立てて生むという表現を世間に知らしめた(もちろんウソだけど)猫八さんの業績を最後に褒め称えておこう。……だって、ネット見ても、モノマネの芸自体に触れた追悼文が見あたらないんだもん。


 ここんとこ、またワイドショーあたりでは話題らしい田代まさしの逮捕。
 ただのノゾキかと思ったら、覚醒剤も押収されたとか。
 勝手な憶測だけれども、前回の盗撮事件より前からクスリはやってたんじゃないかなあ。まともな神経持ってたら、謝罪しなきゃなんないときに、「ミニにタコができる」なんてギャグ、飛ばすわけないもんなあ。
 ニュースはどこも「復帰はもう絶望」発言を繰り返してるが、そう言いつつ復帰した芸能人、腐るほどいると思うがな。いや、復帰がいけないと言いたいわけじゃないのよ。マスコミはホンネでは別に田代まさしがどうなろうと気になんかしちゃいないんだよね。ニュースになるから報道してるだけでさ。そのくせ、言ってることは妙に正義派ぶってて、キャスターたちが「復帰させるべきではない」みたいな態度を暗に匂わせてるのがどうにも気に入らないのよ。
 田代まさし本人については悪い印象は持っちゃいない。芸なしだけど(^_^;)。
 あの田代さんのノリってのは、言っちゃ悪いけど、クラスなんかでちょっと面白いやつがいて、結構みんなにウケてるんで、調子に乗ってシロウト参加ショーに出たら、またこれが結構ウケたっていう程度のレベルなんだよねえ。
 そこが昔から痛々しくて、だからこそ嫌いにはなれなかったんだけど、もう十年昔だったら、シャネルズとしてはともかくも、コメディアンとしてはまずデビューできてない。もともとゼロだったんだって思い切れれば、更生することだって可能だと思うけど、芸能界の甘い汁吸っちゃってる人間で第2の人生送れたって人、そうそういない(吸い損なった人ならまだ戻れるんだけどね)。
 なんかもう、無理しないで、ゆっくり養生しろよって言いたくなるけど、そう言ってあげらける人ももう周囲にはいないんだろうなあ。なんかもう、この人に関するニュースは見たくないな。

 
 しげ、体調が優れないらしく、車での送り迎えが出来ない。
 それで雨の中を濡れながら帰る。
 電話口でのしげの息遣いがいかにも苦しそうだったので、「ボナペティ」に寄って、クリコロッケ・鶏肉・焼きビーフン・カツトジ・茄の肉詰めなんかを買いこみ、更にミニストップで栄養剤も買う。

 ところが、帰ってみればしげは、昨日買ったパソコンデスクを元気に組みたてている。
 ……なんだったんだよ、あの電話口でのタメイキ混じりの声は。
 しかもどこかに置き忘れてきたのか、大枚はたいた栄養剤千円分がない。うわあ、ミニストップか乗って来たタクシーの中かどっちかに忘れてきたか。
 ああ、もったいない!
 もちろん、悪いのは私なんだが、ヘラヘラ笑いながらデスクを組みたてているしげを見ていると、なんだかどうにもムカムカとヤツアタリしたい気分になってくる。
 実際にはあとでしげが3倍返しでネチネチ文句つけてくるのが解りきってるから、やんないけど。
 しげ、要領が悪くてなかなかデスクをセッティングできない。
 「はあーん」「ほわっ」「ひえーん」と情けない声をあげ続けるので、うるさくなって仕方なく家具の場所移動を手伝う。
 しかしこのデスクにパソコンが鎮座ましますのはいつの日か。


 11日(火)の唐沢俊一さんの日記を読んで、オヤッと気付いたことがある。
 すずきぢゅんいち監督の『ひとりね』にからんで、珍しく(と言ったら失礼か)唐沢さんがマジメに映画を論じていたのだ。
 「映画監督は裏方なのである。観客になって楽しんでしまってはいけない。いや映画に限らず、全ての創作において」
 小説で例えるなら、シャーロック・ホームズよりコナン・ドイルが前に出てきちゃいけないってとこだろうか。この批評が「マジメ」だと言うのは、日頃、唐沢さんが主張されている「“裏”モノ」としての姿勢と真っ向から対立する概念を提示されているからだ。
 その裏方たるべき監督が、観客になって楽しみ、つまんないトンデモ映画を作りまくった代表的な例が、あのエド・ウッドだったりする。それに、唐沢さん自身、『すごいけどヘンな人』で取り上げた人々は、みんな出しゃばりばっかりだ。
 現実的には、監督が出しゃばろうが出しゃばるまいが、その作品の客観的評価とはあまり関わりがない場合が多い。評価が高くなるか低くなるかは、観客のその時代時代の感じ方のムーブメントに左右される面が大きいのである。
 唐沢さんの書かれていることは「創作者の心得」を表したスローガンである。だから間違ったことを言ってるわけじゃないんだけど、これは結局、唐沢さん自身の自戒の念として書かれているんだと解釈するのが自然であろう。
 つまり、唐沢さんは、「自分は“裏”モノを観察することは好きだけれども、“裏”モノそのものにはならないぞ」と言っていることになるのだ。
 ……当たり前か。ミイラ取りがミイラに、バードウォッチャーがトリさん自体になっちゃ、話にならんからねえ。っつーか、破滅するって(^_^;)。


 マンガ、酒井直幸原作・田巻久雄作画『獣星記ギルステイン』2巻(小学館・560円)。
 新登場キャラはサラの兄、ミハエル。
 いかにもアニメ化を狙ったような美形キャラ&コヤスなセリフ回し(←やたら「タメ」の多い某声優さんのこと)なのはご愛嬌だが、こういう激悪なやつにはそういうカッコつけが実に似あっている。好きなんだよなあ、「私は滅びぬ!」なんて、打消しの助動詞だけ古語で喋るようなやつ(^o^)。1巻読んだときにはリアル路線で行くのかと思ってたけど、そうでもないみたいね。結構ケレン味たっぷりの話になるんじゃないかな。
 声優さんが誰になるかは知らないけど、是非コヤスでお願いしたい(^^)。
 で、案の定こいつもギルステインで、未だ自身をコントロールしきれていない伊織を翻弄するのだ。おかげで伊織、ナイスバディのヘレナさんに、あんなことまでしてしまうし(^_^;)。
 どんなことをしたかは、マンガを実際に読んでみよう。

2000年12月12日(火) モロボシダンは不滅だ!/ドラマ『ウルトラセブン・果実の熟す日/約束の果て』



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