無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2001年06月11日(月) 誰だってどこか変なんだし/『ぶたぶた』(矢崎存美)

 体重、84.6キロ。
 おお、昨日体重が減っていたのは夢ではない。
 しげが言う。
 「じゃあこれから何も食べない?」
 「いや、何も食べなかったら死ぬじゃん」
 「でも食べなきゃ痩せるよ?」
 「だから死ぬって」
 私を殺したいのか。ホンネは料理を作るのが面倒臭い、ということだな。グータラ野郎めが。

 連日報道がエスカレートしていく小学校乱入殺人事件(そろそろ名称が定着するかな)、この手の報道の定番で、犯人の宅間守の過去のトラブル歴が紹介されている。
 やれ、タクシー運転手時代に一方通行を逆走して注意したホテルマンに頭突きを食らわしただの、学校に勤めてたときにゃ同僚のお茶に薬物を混ぜただの、まあ十数年、既知外ロードをまっしぐらに来てた感じだ。
 笑えたのはバスの運転手をしてた時、女性客の香水が臭いと言って、「運転手にも客を選ぶ権利がある」と嘯いたという話。客にだって運転手は選べないんだがな。ちょっとほかの職業にも当てはめてみようか。
 「医者にも患者を選ぶ権利がある」
 「教師にも生徒を選ぶ権利がある」
 「警察官にも犯人を選ぶ権利がある」
 どんどん選ばれちゃ困るもんになっていくな(^o^)。
 犯人の父親(14、5年前に犯人とは縁を切ったそうな)が初めて心境を語る、とかで、息子が池田小学校のIQテストで落ちたことがある事実を告白。
 するってえと、犯人の「エリートの子供を殺せば死刑になると思った」って供述も前半はともかく後半の方は信憑性が薄くなるな。結局、単に犯人から見た「エリート」を殺したかったってだけじゃないのかねえ(つまり小学生にも劣るわけだな犯人は)。
 やっぱり「子供」に勝つことでしか自分のアイデンティティを維持できなくなってたってことか。こりゃ既知外と言うより、心がオトナになれなかった、と言ったほうが正しいのかもしれない。
 もっともだからって罪が免責されるわけでもないけどさ。

 ネット上では、「法改正しろ」とか「犯人は死刑だ」とか、ヒステリックな叫びが飛び交う事態になっている。
 別にあの犯人を許せと言いたいわけでもないが、あんまり声高に叫んでる様子を見ると、お前らも充分危険だぞとツッコミ入れたくなってしまうねえ。
 だからみんなさ、正義派ぶったマスコミと同じになってるんだってば。
 もちろん精神障碍者の人権が侵害されかねないことを憂慮する冷静な声もあるのだが、今回ばかりはその声も「犯人憎し」の叫びの渦の中に飲みこまれていきそうな気配である。でもそっちのほうがよっぽど「危ない」ってことに気付いてないのかな?
 確かに、ヒステリックになってるとは言え、ああいうイカレた犯人が続出する現実をなんとかしなきゃならんという意見は当然のことである。
 危険性のない障碍者(例えば知恵遅れのような)までが偏見の目で見られることは極力避けねばなるまいが、「病人は一律罪に問わない」みたいな十把ひとからげ的法解釈が、これまでは幅を利かせ過ぎていたのだ。そのことがかえって精神障碍者たちに対する一般人の偏見を助長していた事実に人権擁護派は気付いておかねばならなかったのではないか。
 そのことに対するストレスが溜まりに溜まっていた末に、被害にあったのがいたいけな児童たちである。
 マス・ヒステリーは嫌いだが、本気で行政が対処せねば、危険人物は野放し、被害者は今後も発生、安全な障碍者は差別されるという、八方塞がりの事態になってしまうことは予測しうることである。

 で、この問題、法改正だけですむ問題ではないのだ。
 エイズと同じく、精神障碍者に対する一般的な知識を普及させ、偏見をなくし、対応施設を地域に住む住民みなが受け入れていく土壌を作っていかねばならないことなのである。
 犯人のオヤジが「あのとき病院が入院させておいてくれれば」とほざいてやがったが、結局、誰も彼も病院を座敷牢の延長線上でしか見ていないんだよねえ。それが一番の問題点なのだよ。
 あのさ、例えば「不治の病」の人間ってさ、現実的に「病院から出られない」わけだけど、「病院から出さない」ことを目的に入院させるわけじゃないでしょ? あの犯人を社会に出すわけにはいかないけど、「閉じこめとけ」と言うのは間違いというのはそういうことなのよ。
 彼を隔離しておくにしても、治療や管理のためには今後も誰かが彼に関わっていかなければならないってこと、忘れてないかな? 専門家に任せて自分は知らんぷりか? 自分の家族にキレたヤツが出ても、「あとは病院に」で終わらせるつもりかね? それじゃあの犯人のオヤジと同じだわな。
 自分が関わる気もなくて、簡単に「閉じこめとけ」とか「死刑にしろ」って言うのは、結局「臭いモノにフタ」「事なかれ」的発想の、無責任な発言でしかないのよ。
 ……おっと、この日記のタイトルにもあるまじき責任ある発言をしてしまったな(^^)。
 もちろん私はしげがイカレて刃物振り回すことになっても、一応病院にはブチ込むだろうが、それでそのままに放置する気はないぞ。たとえ治らない病気でも、治ることを信じて看病するよ。その覚悟もなくてなぜ「家族」でいられる?
 もっとも逆に私が狂った場合、しげの方は私を見捨てそうだけど(^_^;)。

 だからさ、この事件でまず問わねばならんのは、あなたの身内がイカレたらどうしますか? ってことなんだよ。それについてきちんと考えてからものを言おうね、みんな。


 仕事が長引いて帰宅が遅れる。
 『犬夜叉』も『コナン』も見損ねた。テレビを慌ててつけると『水戸黄門』のオープニングが。
 あっ、頭から初めて見たけど、オープニング演出、市川崑がやってたのか。六分割の(と言っただけで市川ファンは何のことか解るね)黄門とは大笑い。でもさすがにトシ取ったせいか、往年の『木枯し紋次郎』のオープニングほどの才気は感じられなくなっていたな。
 新世紀の黄門、を謳っているわりには新味がない。石坂浩二はまるで黄門に見えないし。助格が目立たないってのも何だかねえ。伝統的に黄門ものの主役は助格の方だってこと、忘れてるんだよなあ。爺さんより若手が動かんでドラマが成り立つかい。

 矢崎存美『ぶたぶた』読む。
 『ぶたぶた』シリーズ第一作。正直言って、題名に引かれただけで、何の期待もしないで買って読んだ。
 やられた。
 笑って泣いて、映画でならよくする経験を小説でやられるとはなあ。
 タイトルロールの「山崎ぶたぶた」君、彼は喋るぬいぐるみである。
 主役、というわけではない。これは彼に出会った人々の、困惑と驚愕と、笑いと涙とちょっぴりの感動の物語なのだ。
 なぜぬいぐるみが喋り、牛乳を飲み、パスタを食べるのか。
 そんなもの解らない。けれど彼は何となくそこにいて、何となく周囲に受け入れられていく。
 特別ニュースになるわけでもない、まあ、世の中そんなこともあるか、というお気楽さで彼はそこにいるし、彼と出会う人々も初めこそ驚いていても、いつの間にか心が和んでいる自分に気付く。
 たまにぶたぶた君に説教されたりもするのだ。
 ぬいぐるみに説教されてもなあ、と思いはするが、でも全然押しつけがましくないその言葉を聞いてると、なんだかつまらんことで悩んでる自分が馬鹿馬鹿しく思えてくる。
 ぶたぶた君はいったいどれくらい生きているのだろう。
 ある時はベビーシッター、ある時はタクシーの運転手、ある時はフランス料理店のシェフ、ある時は玩具屋の店員、ある時はただのプー、ある時は殺され屋、ある時はサラリーマン、ある時は記憶喪失のぬいぐるみ、しかしてその実体は!
 ぶたぶた君である。
 いいじゃないの、それで。
 ……ああ、これって『異星の客』のその後なんだな。
 SFファンにもファンタジーファンにも、いや、ともかく「何となく変な自分が愛しい」人々に一読を勧めるものである。



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