- 2007年01月03日(水) 「あなたは狂ってる」 席に着くなり女は言った。僕はやや面くらって笑った。なるほど僕は知らないうちに狂っていないとも限らない。この現代では誰がその可能性を否定できるだろう? だがよしんばそうだとしても、初顔の女にさえ指摘されるほどわかりやすい狂気ではないはずだった。 女の顔を、僕はまじまじと見つめ、こんな夜更けのクラブでは、そうした挑発的な引っかけもあるのだろうかと考えた。女はそんな僕の考えを見透かすように瞬きもせず、こちらを見ていた。 「こうは考えられないだろうか」 僕は慎重に言葉を始めた。 「狂っているのはきみの方だとは? でなければ、なにかの誤解だとは?」 女はいらだちもあらわに頭を傾げた。 「わたしは狂っていないし、これは誤解でもないわ。あなたは狂っているのよ、いずれにせよね」 女は引くつもりはないらしかった。私は女が美しい顔立ちをしているのに気づいた。背にかかるほどの黒髪はただ単にまっすぐで、服装は野暮ではないにしろ男を誘うような気配には欠けていたが。僕はグラスを引き寄せて、淡い炎の色をした酒の香をかいだ。古いジャズは遠くのステージからオルゴールのように低く響いてくる。 「だとすればね、ともかく僕はまだきみの見解を支持するだけの根拠を持たないのだから、きみが証明してみせてくれなければね」 「わかったわ。私にはあまりに自明だけれど、ともかくやってみましょう」 女はそっと唇を舐めて、背もたれに体を預けた。 「あなたは昨日、自殺する夢を見たわ。薬を飲んで。薬は…ハルシオン、ううん、もっときつい薬ね? でも死ねなかった。救急を自分で呼んだから」 「そうだ、電話で」 「ええ、もちろんそうよ。夢の中であなたは胃洗浄をされて、ひどく苦しい思いをした。病院の床は冷たくて居心地が悪かったわね?」 「自分の吐瀉物の臭いがしていてはなおのことね」 「それから、今朝起きてからあなたは妻をもらおうと思ったわ」 「もちろん」 僕は深く頷いた。そして上機嫌でグラスを弾いた。この女はなかなか楽しいことを言うのに違いなかった。もっとも女はというとひどく青ざめて、着ている青りんご色のドレスに似た顔色になっていたが。 「何のためかも私は知っているわ。あなたは妻をもらって、誰にも気づかれないようにいたぶって、傷つけ、おとしめ、精神を完全な荒野に変えてしまおうと思ったのだわ。あなたはそれをいい思いつきだと思ったのよね?」 「すばらしいと思ったね」 「ええ、ええ、そうでしょうとも。あなたが大切に心の中に書き留めたいくつかの手法をここで言ってもいいけど、それは省きましょう。いちばん大切なことが残っているから」 女は僕を見た。そこで僕は女が東洋人だということに初めて気づいた。面長で、右の頬の上にほんのわずか、薄いしみが浮いている。 「あなたは、今年のうちに死ぬのね」 多分、僕の表情は変わったのだろう。それはまだ私が考え至ってはいないことだったが、確かに僕自身のうちにちらちらと、木の間の光のようにそっと姿を現しつつある思念だったのだから。女は声をひそめ、身を乗り出して続けた。 「あなたは今年のうちに死ぬつもりでいる。どんなふうに死のうか、どんなふうに酷く死のうかと考えている。いつ、どこで、誰の前で、それとも誰とともに死のうかと。あなたは詩人が天啓を待つようにいい思いつきが降りてくるのを待っているのね」 僕の背筋に鋭い喜びが走った。僕の前にいるのはベルダンディ、それともあのアポロシスの三女神のうちの誰かであるのに違いなかった。だが僕はその思いを押さえて笑った。まだ最後の問いが残っていたからだ。 「ご婦人、話の腰を折ってすまない。あなたは正しい。朝の太陽のように正しい。だがここで僕は主張させてもらいたい。あなたの正しさにもかかわらず、僕は少しも狂っていない」 「ええ、そうでしょうとも」 女の答えは凍り付いたようだった。女は立ち上がった。それで僕には女が背が高いことがわかった。おそらく僕と同じほど高いだろう。僕はけっして背が低くはないのだが。 「でも私には自明なのよ」 女はふいに悲しそうでさえあった。 -
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