- 2006年12月11日(月) 阿鼻叫喚の巷を足下に見下ろす王女の眼差しは真の無感動とでもいうべきもので、仮にも民をば我が子と慈しむ王家のもののそれではなかった。しかしながらあまりに早くこれらすべてを予見していたその目には、すべては今さらのこと、あまりにもたびたび見過ぎてなんら目新しくもない悪夢の繰り返しでしかなかったのかもしれない。このとき王女カサンドラは石像のごとく王城の塔の頂きにじっと立って焼ける町を見下ろしていた。 一人の女が赤子を抱いて逃げまどい、数人のスパルタ兵に囲まれて突き殺された。死者の手から取り上げられた赤子は無造作に地面に叩きつけられて殺された。男たちは屍の土塁を築くように後退し、数人ずつ袋小路や家に追い込まれて殺されていた。炎は金の縁取りとなり金の灯火となってそれらすべてを照らしていた。王女カサンドラの目の前になにひとつ隠しておくまいとでもいうように煌々ととして陰りなく。あるいはそれは、この尊い美しい刀自がかつてその愛を裏切った陽の神の意趣返しであったやもしれぬとさえ思われた。それもまたありそうなことではあった。かの神の権能にはトルトール、すなわち拷問の主としてのそれも含まれていたから。 王女カサンドラは薄青い流れるようなマントをすっぽりとかぶっていた。その襞はゆらゆらと熱を含んで吹き上がる夜半の風に揺れていた。ときおり帯のように濃く吹き抜ける火の粉の群れがその頬を明るく照らした。もしもここにかの神のおわせば、あるいは再び恋に落ちたやもと思うほどにこの夜の王女は美しかった。着飾った美神アフロディテのごとく、青銅に装うアテナのごとく、天の女王ヘラの婚礼の日の姿のごとく、また闇中の真珠ペーセポネ、火炎を吐く犬を駆るヘカテのごとく。闇夜にかかる半月にも似て恐ろしくもの凄まじく、しかもなおあらゆる天上の気品を備えていた。すべての狂気と悲嘆と恐れは王女の身を去って、その横顔は生身とは見えなかった。 トロイアは滅びつつあった。町はいまやこの王女、カサンドラなる一柱の女神に捧げられた燔祭の犠牲のように屠られつつあった。王女はなるほどそのような豪奢な犠牲に価する方であった。そして、ならば、この祭りの施主はかの神アポロン、遠矢を射たもう御方であるに違いなかった。まことに疫病と死との高貴なる御主にふさわしい、偉大なる愛の祭典であった。そして死の。 -
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