終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2006年11月11日(土)

木を思うことは、時間を思うことだ。
豊かにすっくとそこに立ち、その経たあらゆる風雨のすべてを語る。
見るものはそのとき、遙かな過去の前に頭を垂れるよりほかにない。

過去はつねに、「かつて現在であったもの」なのだが、
これを思うことは単にそれを思い出すにとどまらない。
それは「かつて現在であった」ものであると同時に、
それ自体が過去・現在の流れを持っている。
出来事であるならばその経緯と事後を持っているのだ。

これを思い返すことは、つまり有る特定の過去・現在・未来について、
まざまざと眼前に開くことであって、このようにすることは、
それは単に「かつて現在であったもの」の想起にとどまらない。
これを何といったらいいのだろう、例えば椅子だ。

それはかつて木だった。
それはかって誰かによって切り倒された。
それはかつて材木だった。
それはかつて工匠の手にかかった。
それはかつて組み立てられ、色を塗られた。
それは誰かによって買われ、誰かによって売られ、
どのようにしてかここに来た。

もちろんこれには続きがある。
誰かが座り、誰かがそこで何かをあるいはまた別のことを話した。
誰かがそこで泣き、あるときそこには誰もいなかった。
そのすべての時間の相は、意識するにせよしないにせよ、
形として残っている。だから。

だから切り倒される木、打ち壊される椅子は私たちを渺茫たる思いに誘う。
それは単にそれだけのことではなく、
それが保持していた、それだけが保持していた記憶が失われることだ。
この世界から、ある日の木漏れ日の記憶が消えたのだ。
それはたしかに、惜しむべき何事かではないのか。


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