- 2006年10月27日(金) まず、指摘があったのであやまってみる。 閑吟集55番歌は一休さんじゃなかったです。 ご指摘をありがとう、ひとつ賢くなりました。 ちなみに私は自分が間違っていたら当然のことながら謝るが、 「間違えた」ということを残すために消去はしない。 この日記はなによりも私自身のもので、私の間違いも私のものだからだ。 喜びや嘘や名誉や文章や写真や怒りや悲しみと同様。 認識界をとっぱらっちまうという考え方は、一見かんたんだ。 しかもなお、そのようにして得られる悟りについては見当がつかない。 心に何も生じない「無」が、悟りというきわめて観念的な境地に至るのか。 それともそこに見えてくるのはわれらの語彙にある悟りではないのか。 あらゆる概念が薄氷にすぎないことは容易に知れる。 善といい悪という、神といい悪魔という。 だがそれは我々の心という前提を除いては現前しない。 雑草という草などないが、その実、薔薇という花もない。 ただ此処の草があり花があり、それさえ見入ればただの細胞の連なり。 さらに見入れば原子となりついに量子論に至ってそこにはなにもない。 茫漠として縹渺と虚無が広がり、しかもなお限りなく豊かだ。 こんなものはあたりまえのことだ。 人は生き、人は死ぬ。 だが生死のあわいは限りなくあいまいだ。 息が止まる、血が流れなくなる、筋肉が弛緩する。 そんなものは右肩に下がるバイタル・グラフであらわせるのであって、 生死と名付けるのは人の心の習い性にすぎない。 そして振り返ればわれらは生きていると同時に端から死んでいる。 ここに至って生死は不明となって、ただあるばかり。 さらに見入ればあるのかないのかさえ問いえず得体なくしかも躍動する。 こうしたことのどこに悟りがあるのだろうか。 砂漠をゆくように世界をゆくものは、迷うことはないようだ。 もしくは迷っているという感覚を離れることはないようだ。 しかしながら、悟りというものがあるということも信じない。 悟りとはなんだろう。単に不立文字と言い切ってしまいたくはない。 -
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