- 2006年06月25日(日) おんがく、が マーリドは顔を上げる。頭上にあるのは暗い蒼、砂漠の夜の天蓋だ。琵琶(ウーディー)を持つ手を休めて、天の火明かりに見入った。 「聞こえぬか」 その問いに答えるものはなかった。ここは闇のうちの闇、静寂のうちの静寂。人も獣も通わぬ荒野の一片。すべての砂の生まれ来るところだ。 「聞こえぬか、この音楽が聞こえぬか。世のものすべてにさきだって在り、一切にかかわらず世のおわりまで響くおとが聞こえぬか」 それはさびしい音楽で、ゆったりとした無限の変奏のうちに姿を変えながらも、深みには普遍の拍子があった。その、なんといううつくしさであったことか。骨をなでるほどさみしくやるせなくわびしく、しかもそれが撫でる骨といったら、それは聞くものすべての骨であるのに違いない。奏でる手の持つ心は、澄んだ泉の、うかがい知れぬ深いとよみに似ているであろう。 「うつくしいな」 マーリドは琵琶を取った。聞き知る調べはいかなる楽器、いかなる定命の種族の手よりも歌いだせぬと知りながら、それでも、歌い始めた琵琶は、かすかにその天上の響きを帯びて、遥かに遠くでは狼の吼え声が夜の大気をつんざいた。 やがて琵琶を弾き続けるかれの頭上に、月でも星でもない光がおともなく降り注ぎ、かたちのない影たちがそのうちを漂い過ぎていった。次いでもっと巨きな気配が衣のすそに包みとるようゆっくりとかれを取り巻き、それもまた薄れて消えた。最後にきたのは王侯の天幕ほどもある巨大な狼で、漆黒の毛並みを光のうちにひとうち震わせて、うたびとの前にねそべった。だが光がうせるとともになにもかも消えうせて、音楽の途絶えるとともにもとのもの寂しくだだっぴろいばかりの暗がりにかえった。 「聞こえた、なんと多くのことが聞こえたことだろうか」 マーリドはささやいた。 「時のはじめから今にいたるまで、大地の見た夢はしんきろうのように立ち上って俺の周囲にあった。百万年は一瞬のうちに俺の周囲に広がり消えて、俺はこの地が緑であったころを聞いた。狩りするひとびと、羊を連れたひとびとが来ては立ち去っていくのを聞いた。その夢と音楽を聴いた」 ことひきマーリドにまつわる数多い逸話のひとつである。 -
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