終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2006年05月20日(土)

用不用説の深淵

『目の誕生』(アンドリュー・パーカー)をきわめて楽しく読んだ。
だがひとつだけ引っかかった。なるほど目は三葉虫の上に出現した。
そのあとどのようにしてその系統を脱して広く生命の大多数を占めたのか。

目という完成されることが前提となる器官が出現するにあたって、
なるほど一定の世代があれば可能であることを著者は説明した。
それは確かに巨大な発明であった。
それによって生命は、風景と外貌を手に入れたのだ。
現代はそれなしには回らない。
まさにパラダイム・シフトであった。

しかしながらどうだろう。
三葉虫についてはそれでいい。
だが別系統において、それもほとんどの系統において、
同じ「目」がその数だけ発生したというのはいかがであろうか。
これは多少なり、常軌を逸した考え方ではないか。
何度振っても「6」の目が出る骰子を想定するようなものだ。

ここに用不用説の亡霊を見るのは私だけだろうか?
進化しうるということと、無限回進化しうるということは別だ。
だがどうだろう、ここでウイルス進化論を想定したら?

目が一つの病変であったとしよう。
この病変を引き起こすのは目を発生させるために必要な遺伝子の一群だ。
これはどこにでも根付けるわけではない。
だが一定の条件がそろえば発病し、目を生じる。
「目」は伝染し、瞬く間に生物界を支配した。

この小さな文章がおそらく真実を突いていることはないだろう。
なによりも目とは、神経系の確実な一端であるのだ。
無為に持ち運ぶことに意味があるとは思われない。
だから正しい答えが欲しい。無意味な収束に過ぎぬというのではなく。


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