終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2006年03月04日(土)

『緋文字』:

 紫煙は暗い部屋に渦を巻いていった。マルチェロはビロウドを張ったソファに座り、組んだ両足を靴をはいたまま大理石のテーブルにのせて目を閉じている。白いシャツはボタン三つ分だけはだけられ、サイドテーブルの灰皿には燃え尽きたハバナ葉巻。
 ボルサリーノは戸口脇の帽子掛けにしわくちゃになって所在なくかかり、窓の外には眠らない町の灯が夜明け前の雨ににじんでいる。
 ノックの音がした。応答は部屋の中からないが、扉は開いた。それで闖入者が誰かは明らかだ。ボスの部屋に許可なく入れるのはたった一人だ。
「どうした」
 扉は廊下の光をいびつな四角にして絨毯に落としている。ベネディクトは扉を閉じて、暗い部屋を横切り、マルチェロに歩み寄った。
「ボスがバカンスから帰ってから一両日、一言も口をきかずに閉じこもってるんだがどうにかしてくれと、ダナエが、俺んとこに泣きついてきたぜ」
 マルチェロは目を開けたが、だが興味もないように顔も上げない。口元の葉巻をとると灰皿に押しつぶした。別の一本を開いたままの銀のケースから抜き出して、口にくわえた。ベネディクトはその先端に火をともすと、自分も骨ばった指を伸ばして一本取った。
「……私から盗みをする気か」
 暗がりに浮かぶ赤い小さな火が二つになって、マルチェロはかすれ声で呟いた。ベネディクトは煙を吐いて、ハ、と笑う。
「学校の宿題で、コイツを全部灰にしなきゃいけねえんだろ? 手伝ってんのさ」
「笑わんぞ」
「しかめっつらしてろよ、ベーベ」
 ソファが傾く気配がして、ベネディクトが座った。触れ合う気配もなく、ただ煙を吐き続ける。マルチェロは黙って頭を背もたれにもたせかけ、体から力を抜いた。サン・ペールのモテルからこのかた忘れられていた眠気が、ゆったりと、だが抗いがたく、深いめまいのように戻ってくる。
 そうだ、この男は、ベネディクトは、私の母親の葬儀のあともこうして横に座った、と、マルチェロはもう半ば眠りに沈みながら考える。あのときもやはり眠りは遠く、もう何を考えていたか、何を思っているかさえ定かでなかった。だがまだ煙草を知らなかったマルチェロは、ただベッドの端に腰掛けて、眠れぬ昼夜を三日ほども過ごしたのだった。それはもうずいぶん昔のことだ。
 最後に感じたのは襟元に落ちた灰の音と温度、唇から燃えさしの葉巻を取り去る指がかすかに触れた、そのかすかな感触だった。犬といるようには思わなかった。ただ穏やかな、眠たげな男の気配があったばかりだ。

 サン・ペールからの帰途は単調で、車も汽車も得意でないマルチェロにはおよそ耐え難いものだった。途中、何度か運転席からククールが何か話しかけてきたような気もしたが、よくは覚えていない。
 凱旋門脇でトゥインゴを降りたが、別れの挨拶さえしなかった。目をあわしもしなければ見ようともしなかった。そうと気づいたのもずいぶん後のことだ。真っ直ぐ『オフィス』に戻り、それきり外には出なかったのだ。

 眩しさに目を開く。開いたままのカーテンから、真っ直ぐに午後の光が顔にかかっている。マルチェロは顔を覆う。朝の風が涼しく顔に触れた。
「起きたのか」
 低い声はベネディクトのものだ。キイとかすかに蝶番がきしみ、やや乱暴にガラスの扉が閉まる音がした。
「……カーテン」
「世話のやけるやつだ」
 カーテンレールを樹脂のころが走る音がする。光が陰って、マルチェロはようやく顔を上げた。ベネディクトの大きな影が窓を背に立っていた。黙っているとその影は近づいてきて、頬にざらりと触れる。
「よく寝たな、無精ひげがセクシーだ」
 のろのろと手を伸ばして執拗に頬を撫でる手を押しやり、いっそう鈍重に体を起こす。体が冷えてこわばっていたが、不思議と頭はすっきりしていた。煙の匂いの染み付いた前髪を払いのける。見ればシャツは灰で汚れている。うんざりして、マルチェロは細かな灰を指で払う。
「三時半だ、シャワーを浴びるなら急げ」
「急ぐ?」
「五時からムーラン・ルージュに行くからな」
「誰がだ」
 ベネディクトが笑った。
「おまえと俺がだ。何をしに行くかも言ってやろうか?」
「言え」
「ムシュー・コステロとの打ち合わせにさ」
 思い出すまでもなかった。確かに、その予定は二週間も前から入っていたのだ。マルチェロは黙った。

 熱い湯は頭上から滝のように降り注ぐ。仰向いた顔と髪を濡らし、腕と胸の上を湯が流れる。ホルスターから引き抜いた短銃はシャワーの上のいつもの棚にある。
 浴室の前には頬傷のシモンが番犬よろしく護衛についてはいるが、護衛でさえあてにはしないことが暗黒街で長く生き延びるためのルールだ。シャボンの泡がシャボン以外の香りを含まないのも、タオルが白以外の色でないのもそのせいだ。
 熱い湯を浴びながら、マルチェロはククールのことを考えた。これまでにないほど注意深く考えたといってもいい。そうだ、こんなふうに。私にはあの子供を殺せない理由はない。私はあの子供をあるいは愛しているかもしれないが、近づく必要はない。私は今の生活をやめるつもりもないし、それなら必然的に殺しをこれからも続ける。
 理由と必要と必然を並べてみて、それでもこの件に関してはそれでは何も説明したことにはならない。マルチェロは白いタオルを取って体を拭う。自嘲する習慣があったとしたら、きっとこう言っただろう。それは神聖なことだったかもしれない。だが私はこう言うだけだ。それがどうした、と。しかしマルチェロは口に出して自らに物言う習慣もなかったし、そうした癖は望ましくないものだと心得てもいたから、何も言わなかった。

 黒塗りのセドリックが出発したのは午後4時30分のことだった。


------------------------------
「けれど私たちがしたのは神聖なことでした。そうでしょう?」
アーサー・ディムスデール(ハーディー・オルブライト)『緋文字』



ようやく復帰しました。
ここまでは「銀幕の幻」と妙な題をつけてHPにアップ。

お気づきの方はいるんだろうか。
ベネディクト・オディーロさんです。(わあ!)




「でたらめに生きれば天が罰を下し、でたらめに食えば腹が罰を下す」

と、モンゴルの格言にある。そのとーりだ。
キットカットの抹茶チョコが気に入って一袋食ったら…もう…(涙)


-



 

 

 

 

ndex
past  next

Mail
エンピツ