- 2005年11月02日(水) 音楽家兄ネタ。続くかも…?知らん。 そこは確かに城の敷地の中だったが、父親の情婦が住む庭園の向こうの瀟洒な小宅と同様、彼の生活の外にあり、書き割や背景に過ぎなかった。つまりそこに一風変わった六角の塔を備えた別館があるのを彼は朝ごとに見ていたし、城壁を一つ越えて、物寂びた小道を少しも歩けばたどりつくと知ってもいたが、星や月と同様に、そこで自分に関わる何かが起こったり、あるいは起きている可能性があるとは考えてみたこともなかったのだ。 彼――ククール。王家に連なる由緒正しい公爵の家に嫡男として生まれ、先ごろ成人したばかりの青年公子。金も若さも地位も持ち、さらに母譲りの銀の髪と端正な容貌で、若い娘から熱烈な視線を受けたり、金と閑のある貴婦人に濃厚な色目を使われるのには早くから慣れたものの、情や驕りに溺れるにはいささか如才なく生まれつきすぎたのか、社交界に派手な噂を振りまくわりには、悪い評判はまったくといってよいほど聞かれなかった。 城壁の迫持をくぐり、ククールは細い小道をたどっていった。というのは、その朝、美しい男爵夫人から、「わたくしのお友達」という心のこもった呼びかけで始まり、館への訪れのかなわなくなった理由について優雅な筆致で述べられた手紙が届いたからだ。内容についても、夫人のわびる気持ちについても得心のいく手紙だったとはいえ、ククールの一日の予定が白紙にかえったことはいかんとも仕様のない事実で、そのためふと、目の前にありながらこれまで行ったことのなかった別館を訪れる気になったのだ。 最初に不思議の思いを抱いたのは、誰も住まぬはずの館が、近づいても見て取れるほどの荒れた様子もないことだった。白い壁に蔦は絡んでも、窓を閉ざしてはいないし、石組みにも乱れた様子は見て取れない。しかし、結局は万事を取り仕切る家令の有能さに帰して、そのまま歩んでいった。 だがその次に気づいたことについては、これは、どのようにも既知のことからは理解することはできなかった。ククールはもうよほど館の近くに立ち、呆然と六角形の塔を見上げた。異変はその瞬間にも耳を打っている。 「――……」 聞こえているのは、音色だった。かすかに、だが間違いようもなく。だが、幽霊を信じるにはあまりに明るい朝であり、雲ひとつなく透き通った空でもあった。ククールは黙って扉に手をかけ、そっと押し開いた。その瞬間に、雷鳴のごとく音色はククールの上に降り注ぎ、身じろぐことさえ忘れさせた。 音色。音。だがそれはむしろ光ではなかったか。どのような手、どのような想いであればこのような楽章を奏でられるのか、ククールには見当もつかなかった。天窓から光は斜めに射し、中空の塔の中ほどに据えつけられた巨大なパイプオルガンを照らし出している。銀の風管は明るく輝いている。旋律は百の断面を持つガラスの球ように変容し変容して過ぎ去り、大気に満ちる音楽の語る思想は深い悲しみに満ちる。それはほとんど一瞬ごとに百万の言葉で語り、理解を切にせまりながら、思いの中でさえ捉えられぬ。ククールは困惑とも感動ともつかない思いに捕らえられて立ち尽くした。 「誰だ!」 鋭い誰何の声とともに、音楽が断たれた。はっと見上げたククールの目に一人の男が見えた。男はこの音楽の弾き手であるのに違いなかった。だがいま、オルガンの前に立ち、見下ろしてくる男には警戒と不審がありありと浮かんでいる。ククールは応える言葉を見つけかね、ぼんやりと男を見た。 「召使には見えぬ。客人か?」 男は黒髪だ。青白い顔の中で、見下ろしてくる瞳は翡翠の緑。ククールがなおも応えずにいると、穏やかに、だがはっきりとした拒絶の意図をもって扉が指差された。 「この塔は、主人によって余人の出入りを禁じられております。無礼の段はお詫びするが、どうか早々に立ち去られよ」 「主人――公爵が?」 思わず口をついた問いは、そもそも父親の口からこの塔の存在について聞かされたことがなかったため。「父」ではなく「公」と選んだのは無意識。 「さよう」 辛抱強さと苛立ちがその声には潜んでいる。 「あんた、は…?」 黒髪の男が唇を引き結んだ。怒りの気配は隠しようもなく。ククールはひやりとしたものを感じ、男が再び口を開く前に先を取った。 「あの、音楽が」 男の眉がけげんそうに寄せられる。ククールは必死で後を続けた。 「あの、音楽が聞こえて。美しかったものだから…。あんまり美しくて」 しどろもどろに言ううちに、男の眉がふと緩んだ。ずいぶんと美しい男だとククールはこのとき、突然に気づいた。年齢は、自分よりもよほど上だろう。だが三十路にはなっているまい。男らしい厚みが身についている。 「こんな演奏を聴くのは初めてで…なんて言ったらいいか」 「お褒めの言葉、いたみいる」 礼儀正しい言葉から冷たさや拒絶の調子は消えていた。だが依然として親しさも気軽さも感じられないことも確かであった。なにか粗相をしでかしたような、ぎこちない、落ち着きの悪い思いにククールは身じろぎした。 「音楽好きの客人のために、一曲、弾いて差し上げよう。だが、それを聞き終わったら立ち去ると約束して頂きたい」 有無を言わさぬ調子があった。ククールは黙って頷き、高みの男がオルガンに向き直るのをぼんやり見上げているほかなかった。 ストップを調節する木と木のこすれる音がコトコトと響き、続いて、意外に柔らかな、やさしい音色がこぼれた。雷鳴のようだった先ほどの曲には聞き覚えはなかったが、今度の曲はククールも知っている有名なフーガだった。低音部を欠いた明るく澄んだ音は、激しい情熱ではなく、川辺や光の射す斜面を思わせ、追いかけあう旋律は祭りの日の賑わいを思わせた。そしてその奥底には、ほのかな揺らぎのように先の曲と同じ深い憂いが漂って、暗い淵の気配が、描き出される曲想の明るさを強調している。 ククールは永遠ほどもそうしていられただろう。だが音楽は過ぎ去って、弾き手は立ち上がった。言葉で促しさえされなかったが、向けられた眼差しは厳しく、遅延も猶予も得られないことは明らかだった。それでも。 「…出て行くよ。出て行く。だけど、教えてくれ。あんた、誰だ? ―なあ」 答えは扉を指す手だけだ。ククールは渋々と歩き出し、それでも扉を出る前にもう一度振り返らずにはいられなかった。 「名前、だけでも」 男がわずかに頭を傾けるのが見えた。答えを期待していたわけではない。だが音色のなかの一つの音色のように答えは返った。 「――マルチェロ」 -
|
|