- 2005年06月01日(水) 『オイディプス王』についての試論 問い:なぜ観客は筋を知らされるのか? 問うに先立って: ギリシア悲劇、正しくはアッティカ悲劇の観衆は常に市民たちであった。 彼らはディオニュソスを祭る祭祀の最大のイベントとして、 悲劇三部作と喜劇一作を、一日のうちに観たのである。 さて、ここで上の問いに関連する最小限の情景を記述する。 劇は円形劇場で行われ、人々は地位に応じた座席を占める。 おぜん立ては整って、まず舞台に上るのは口上人だ。 彼は行われる劇のあらすじについて、最初から最後まで語りつくす。 現代の読者や観衆はおおむね「筋を割られる」のを嫌うであろう。 物語はサスペンスやスリラーであればなおさらだ。 驚くべき結末を先に明かされれば興ざめするのが現代の観衆なら、 それなら悲劇は現代の物語や劇と同列のものではないと推論できる。 では、悲劇とは何か。 あらかじめ筋を知らされることを本質とする悲劇とはなにか。 これはこの問いの裏側であり、真実の問いでもある。 一つの回答の試み: 答えるに先立って: ここでもう少し詳しく悲劇の形態について述べよう。 登場する俳優は2ないし3人で、これは厳密に定められている。 しかし舞台には、合唱隊「コロス」が登場する。 コロスに割り振られた役は作品によりまちまちだ。 『オイディプス王』の場合は、テーバイの市民たちということになる。 彼らは俳優とやりとりもするが、対話の合間に位置づけの難しい歌を歌う。 そして明らかにそちらの方が、彼らの本来の役割である。 回答への努力:ティレシアスの不思議な発言 物語の開始からほどなく登場する盲目の予言者ティレシアスは、 テーバイの市を襲った災いの原因、先王ライオスを殺した下手人について、 「知っているが言うわけにはいかない」と言う。 これは明らかに理不尽な行為である。 論理的にいうならば、望まない発言をしない最良の方法は、 「知らない」と答えることだからだ。 ではなぜティレシアスは「知っている」が「言わない」などと、 為政者を激昂させる発言をしたのか。 そう言わねばならなかったからだ。 この劇には、「知っている」が「言わない」存在がもうひとつある。 観客だ。観客はすべてをあらかじめ知っているが、「言わない」。 観客はティレシアスがその言葉を発した瞬間に、 盲目の予言者となってこの劇に引きずり込まれる。 言い換えるなら、観客はこの劇をティレシアスとして体験することになる。 回答への努力:ティレシアスとして劇を生きるということ ティレシアスはそれほど長く舞台の上にはいないが、 それはもはや何の支障にもならない。 「あらかじめ知っている」という共通点においてティレシアスとなった 観衆が最後までそこに存在し続けているからである。 観客は、ティレシアスなら感じたであろう形で劇を体験する。 オイディプスの、イオカステの、クレオンの、コロスの、 そのすべての発言に注意深くたたみこまれたダブルミーニングは、 表面の意味も裏の意味もともに観客には理解される。 ダブルミーニングはけして言葉遊びではない。 登場人物はみな、それぞれが知らず知らずのうちにその運命に言及する。 彼らが口にする言葉は、神の臨在の証拠である。 運命はすでになされ、ただ彼らに気づかれていないだけなのだ。 このダブルミーニング、二重底のあわいは神のありかだ。 コロスの脈絡ない歌はしだいにそれを歌い始め、観客はそれと知る。 精緻な劇は「あらかじめ知っている」観衆によってこそ理解される。 そしてこの二重底の劇は不思議な立体性を持って抗いがたく立ち上がる。 運命が揺らぎ、人々が悲惨な結末に向かってひた走ることが理解される。 そして観客は最後までともに行き、その転落を知る。 比較してみよう、もし観客が何も知らなければどうか。 舞台上の出来事は、ただ生起する事象の連続に過ぎない。 ただの事象に真の悲劇性を見て取ることはできない。 最後のどんでん返しはたしかに派手だろうが、それは悲劇ではない。 回答への努力3:クライマックスはなぜ隠されているのか この悲劇の奇妙な点は、クライマックスが登場人物の語りによることだ。 オイディプスは舞台上で目を刺し貫かず、イオカステは首をつらない。 下僕の言葉としてそのようなことがあったと語られ、 そして目から血を流すオイディプスが登場するだけだ。 これはどういうことか。 最高に劇的な、現代的な意味で演劇的な場面が観客から隠されているとは。 ソフォクレスは役者にこのシーンを演じる力がないと感じたのだろうか? (余談であるが、悲劇役者たちは大げさな面をつけ、芝居用の高いゲタを はいていた。だからそれほど激しい動きは不可能ではあったのだ) 実際のところは、そうではないだろう。 ドラマティックなシーン、劇的なシーンは、悲劇には必要とされないのだ。 悲劇は実際のところ、悲劇的な追求にこそあったのだから。 むしろ、悲劇的な追求をする人々の姿と転落だけが悲劇であったのだから。 血も傷も、それに比べればなんと嘘臭いことか。 試まれた回答 ごくかいつまんでカギとなる部分だけを抜き出してみた。 答えは不十分なものであろうし、 すでに先人たちが十分に吟味した悲劇の王に新たな意味を付け加えるには まず至らないであろうと前置きしておく。 悲劇とはなにか。 舞台で演じられる劇はその半分に過ぎない。 観客の「あらかじめ知っている」目でもって見られ、 その目で見て理解された、二重構造の恐るべき劇こそが悲劇である。 そうして理解されて始めて、悲劇は生命を与えられるからだ。 この盛事が神への捧げものとして執り行われたことを忘れてはならない。 観客はなぜ四本の劇を一日のうちに観なければならなかったのか。 それは、継続した上演によって、一つの神話をその日その人々の精神に まざまざと再生し陽の下に生かすためであった。 アテナイの人々は、彼ら自身を糧に「生きた」悲劇を捧げた。 そして、生きた悲劇だけが悲劇なのだ。 ……頭いて…。普段使わないのにムリに使ったから…。 -
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