- 2005年05月05日(木) とりあえずラヴクラフト全集を読み終わった。 初期作品の退屈さに比べ、クトルゥー神話のイメージは鮮やかだ。 聖書の存在を知らずに西洋文物を読み知ったら、 おそらく同心円を思うだろう。そして聖書を知れば、中心に合点がゆく。 西洋は樹木の幹のように、層を重ね先立つものを取り込んでゆく。 そしてすべてに先立つのはギリシア文化と聖書だ。 ラヴクラフトは中心にもうひとつ深く、つまり聖書に先立って、 彼の神話を押し込んでみせる。 「実はもうひとつ深い」というのはこけおどしの代表格だが、 しかし彼のイメージの鮮烈さとホラーという様式がこれを許す。 「実は」というのはおおむねこけおどしだが、 それは西洋人にとっては根深い恐れの対象ではないのだろうか。 一方、日本は、あるいは私の知る限りの東洋文物は、どうも…こう、 重層的というよりは樹木のごとき様相を呈しているので、 あんまり「実は」のインパクトが強くないんじゃーないかな。 こういうことは、素人が書いても、自分で読んでアホくさいのだが、 書き留めないと、忘れる。 「ホンモノの絵」について、これを偶像視するこたないんでないのと、 友人がどこかで書いていたので、ここで私の考えも書きとめておく。 「モノ」は歴史である。歴史は検証不可能だから科学ではない。 「モノ」はそれが持つとされるデータ以上の存在である。 それは歴史だ。解釈によって別のものとして現れ出ることさえある。 「モノ」は変遷の蓄積である。歴史である。 その画布は数百年前に織られたものであり、 その石は芸術作品として生まれ出るのに先立つ数万年を存在してきた。 すべて定冠詞をもって語られねばならないものだ。 モノであるというのは検証不可能ななにかであるということだ。 すでに読み解かれた以上のデータであるということだ。 これでは答えにはならないだろうか。 それで、眠い。 -
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