終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2003年09月17日(水)

愛されたいなら。

どうだろう、『わかってもらう』努力をするべきなのか?
それとも『愛されるよう』努力するべきなのか?

うろおぼえなので引けないが、ニーチェは後者の立場を取った。
そして私もそちらの立場を取る。むしろそれはごくあたりまえのことだった。
『私自身』というのはそのままでは愛されるような代物ではない。
私を『わかって』もらったからといって、私が『好かれる』とは限らない。
そんなのはあたりまえではないか。人は愛するに価するもの以外愛さないものだ。

『わかって』ほしいと言う人間を私は多少なりと生温い目で見る。
だって、それは『わかって』『愛して』ほしいという欲求ではないのか。
そんなのはムチャなことだ。だってあなたは愛されるに価するものではない。
醜さまでも愛してほしいなどというのは愚かな望みだ。
そんなのは人間には不可能なことだ。

相互理解はもっと乾いたものだ。それは情愛には属さない。
乾いて論理的で美的で厳しい。私はそっちの『わかる』ことならしたい。
厳しく自らを切り裂き言葉に直し、可能な限り理解を深めたい。
他者のいかなる願いを持ち世界をどのように理解しているかを知りたい。
だがそれは『愛』を求めるのとはまるで違うことだ。
そこは人間の住み家だ。厳しく強い人間の住み家だ。
それは『愛する』ことへの強い願いだ。私はそういうのが好きだ。


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