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Montgomery Book

第6章 エピソードはめぐる (1) 家路
 いうまでもなく、モードの作品の真骨頂は、細部の魅力の積み重ねである。モードが創作用のノートを読み返していて「赤毛のアン」執筆のきっかけになったメモを思い出してみよう。あらすじだけ取れば、「赤毛のアン」ですら、『手伝いの少年を欲しがっている兄妹のところに、手違いで女の子がやってきた』というだけのものなのだ。平凡きわまりないと思われている田舎の島の人々と暮らしをどう料理するか、そこに料理人の技が生きる。『しかしその女の子は非凡な子で、さいごには周りの人みんなに愛され、逆に彼らを導く存在となりました。』という結末にいたるまでの容易ならざる日々には、まさに'アンらしい'エピソードが凝縮・満載されていることは、ファンならずともうなずけるだろう。

 そしてまたいうまでもなく、ほとんどの作家は、自身の体験をもとに、その属する世界に似た世界を描いている。モードのように普通の人々の暮らしを描いた作家にとどまらず、たとえ未来を描くSF作家であっても、発想をつくりだす源は、個人的な体験(あるいは民族的体験)にあると─表面的にしろ底深くにしろ─思われる。モードの作品において何度か繰り返される重要なエピソードがある。それらがモードの人生にとって何らかの忘れがたい意味をもっていたからこそ、彼女は意図的に主人公たちに自分と同じ体験を与えていると思われる。

 最初、私は、彼女の人生そのものに、必要以上(作品に直接関連なさそうなことまで)踏み込みたくないと考えていた。私が知りえた彼女の情報は、作品と日記(生涯何度か本人の手で書き直されている)の一部、手紙や写真の一部でしかない。間接的にしろ、生前の彼女をよく知っている人と話す機会もないし、いまだプリンスエドワード島やトロント周辺を訪れたことすらない。もっと客観的な情報を手にできない以上、彼女の人生がいかに作品に投影されているかを論じるのは困難だという思いがあった。(この本を書き進めるなかで形になってきたACとしてのモンゴメリの姿についても、現段階ではあえて考察を避けた)

 しかし、ひとつのシリーズで主人公(あるいは重要人物)が体験するエピソードが、他のシリーズでも少しずつ形を変えて顔を出していることを思うと、エピソードのもとになったモード自身の体験や記憶といったものを探らざるを得なくなってくる。興味深いエピソードのすべてを取り上げることはできないにしても、私流にチョイスすることで、モードが意図的にチョイスした『繰り返されるエピソード』が、どのような意味をもっていたのか、想像することはできるかもしれない。


●家への道を歩き通す子ども

 どこか離れた場所から、たったひとりで歩いて家に帰る子ども。これは不思議なほど繰り返されている。たとえば、町で高校生活を送っていたエミリー・バード・スターは、とある月の明るい夜、門限を過ぎたという理由で閉め出された意地悪なルースおばさんの下宿から、ニュー・ムーン農場へと歩いて帰った。いとこのジミーさんになぐさめてもらい、この件は他の家族には知られずに解決する。

 アンのシリーズでは、アンの幼い息子ウォルター・ブライスが、数日の予定で預けられた父の友人宅から、わが家の炉辺荘をさして夜中に歩いて戻り、大人たちをびっくりさせる。このときアンは出産の最中だったので、子どもたちは他へ預けられたのだった。ウォルターは噂からてっきり母が病気で死ぬのだと思い込む。

 アン自身も娘時代、遠い道を歩いている。「アンの愛情」で、帰省の乗り物がちょうど間に合わなかったため、アンらしい思いつきで、カーモディの町からアボンリーへ、「五月の夕暮の中をなんともいえなく美しい散歩をして」(「アンの愛情」より)帰ったのだ。待ちかねながらまだ帰るまいとあきらめていたマリラの前に裏口から現れたアン。おかげで、マリラは、生まれてはじめて自制を失い、わきでる愛情を表現したのだった。

 銀の森のパットもまた、夜道を歩いて帰った。訪問していた母の実家「入江の家」で、銀の森農場という大事な家があるパットは、あまりくつろげない。いざ帰る段になって、途中でアクシデントが起こり、パットはふたたび入江の家に戻れといわれるが、気持ちはもう家に向っていた。それならば、歩いて帰ればいい。たった3マイルだもの。あげく夜の森で迷子になってしまうパット。しかし後に恋人となる'家のない少年'ヒラリー・ゴードンとはそのとき出会ったのだから、パットの場合は、このエピソードがまた別の意味をも帯びている。

 晩年の作品「丘の家のジェーン」の場合は、トロントの母の実家から、父の住むプリンスエドワード島へ、付き添いの大人と一緒に列車の旅をする。本のなかで島とトロントを何度も往き来するジェーンは、最初の旅では見知らぬ父への恐れにふるえていたが、二度目の旅は、その父の懐へ帰る旅だった。このときも付き添いがいる。そして次には父と途中まで一緒にトロントへ帰る楽しい旅。最後の旅は、両親の今後を思って苦悩しながら、たった独りで島へ渡る。以下はその旅の様子である。

旅行中、ジェーンは夜も昼も真直ぐに座ったなりで、しょうが入りビスケットを無理に食べてひもじさをしのいだ。殆ど身動きもしなかったにもかかわらず、ジェーンは絶えず走っているような気がしていた……道をいく誰かに追いつこうとしているかのように……走り──絶えずますます先のほうへ去ってしまう誰かを。

/「丘の家のジェーン」

 これらに共通しているのは、主人公たちがまだ比較的幼く、最初、その場所へ赴いたときは、それほど嫌な予感はなかったこと。場合によっては期待もしていたが、途中でどうしようもなくホームシックに陥ってしまい、歩くという原始的な方法で逃げ出すことである。いてもたってもいられず、大人だったらできない冒険を子どもたちは体験する。

 このエピソードのもとになっているのは、モード自身が16歳で体験した、西部のプリンス・アルバートの父の家からの帰還だろう。往路は議員であるモンゴメリ家の祖父という強力な保護者と一緒だったし、父と暮らせる喜びが大きかったが、1年後、父の後妻との折り合いも悪く、家に帰ることになってしまう。その家族と「やっていけない」と思ったからである。帰り道、モードは、精神的にはほとんど独りで、この長い長い列車と汽船の旅を体験した。それでも日記によれば途中トロントでは議会に出ている祖父のモンゴメリと会うこともできたし、往復の途上でカナダ各地を見たことは、見識を広めてくれた、とあるけれど。

 モードはこのときの自分の感情をほとんど日記に記していない。公開を前提にした作家の日記だから、書き直すときに削ったのかもしれない。これから父の家に引き取られる(といっていいだろう)ことになったという大きな出来事をほとんど書かず、いきなり出発の日が来るし、たった1年で島へ帰ることになったとき、心中をうずまいていたであろう父への恨みについても、日記では触れていない。そこにあるのは後妻への不満だけである。おそらく、『良い子』であったモードは、負の感情を決して父にぶつけなかったのだろう。

 モードがもし、どんな形にしろ、愛する父に自分の正直な気持ちを伝えていたならば、後々、これほど何度も、主人公たちが家に歩いて帰ることはなかったのかもしれない。モード自身の父への気持ちもずいぶんちがったものになったはずである。そして私たちは、作品のなかで積み重ねられる魅力的なエピソードのひとつを失っただろう。

 救いとなるのは、そうして帰り着いた先に、父ではないけれども(子どもたちを迎えるのはエミリーの場合を除いて女性ばかりである)、離れていたあいだに何らかの変化があったにちがいない祖父母と、包容力のある叔母一家がいたことである。厳格なクリスチャンで昔気質な生活を送った祖父母の、たったひとりの孫娘への愛情を、私たちはエミリーのエリザベス叔母にも、アンの養い親であるマリラにも見ることができる。

 たとえばアンが下宿していた「パティの家」のような理想的な下宿には、モード自身は出会っていない。現実はまったく逆の下宿先で暮らしていた。だからといって、エリザベスおばやマリラの隠し持つような愛情を疑う理由にはならない。ジュディばあやのような全面的理解者はそうそういないかもしれあいが、エリザベスやマリラのような不器用な人物は、最も身近な祖父母のなかにもいたのだろう。

 その一夜で精神的に大きく成長した主人公たちと、1年振りに家に帰って、誰もが見違えたほど成長していた16歳のモード自身の姿。彼らを重ねあわせると、晩年になるまで繰り返し書いた重要なエピソードの意味が、島へ帰る列車のなかで彼女が内心訴えていた思いの深さだけでなく、その体験が彼女をどれほど人間として成長させていったのかも含めて、見えてくるようである。
参考文献
2002年09月05日(木)


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