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Montgomery Book

第5章 主人公へのまなざし (1) 子どもたち
もちろん、それは穏当なことではない。しかし私はこれまでも、またこのさきもエミリーが穏当な子どもだと言うつもりはない。穏当な子どものことは本に書かれない。そんな本は退屈でだれも読む気にならないだろうから。

L・M・モンゴメリ/「エミリーはのぼる」

 世のなかには早熟な子どもたちが存在する。他の子どもたちよりずっと早く文字と言葉を自覚もなしに覚え、大人になるまでの数年間を、晩成型の人々の想像する以上に老成した内面を抱えて成長する。早熟さは、モードの描いた主人公たちの子ども時代の、大きな内的発達の特徴といえるだろう。エミリーは穏当な子ではなかったとモードは書いているが、早熟だったことは疑いない。そして、家庭的には、ほとんどの主人公が孤児か片親の境遇にあった。孤独は意識するしないに関わらず、早熟をうながすのかもしれない。

 グリーンゲイブルズに'手ちがいからもらわれてきた'ばかりの、11歳の赤毛の孤児アン・シャーリーが繰りだす摩訶不思議な言葉の魅力。あまりに大人びていて子どもらしくないといわれることもあるが、晩成型のタイプから見たら、そうなのかもしれない。大人になれば同じラインに立って、それまでの成長の速さの個人差ということで片が付くのではないだろうか。私もどちらかといえば早熟だったので、当時、つまり11歳の頃から、同じ歳のアンの話しぶりが子どもらしくないと思ったことはなかった。ほとんどすべての人を魅了してしまうおしゃべりの才能には惹かれたけれど。

 アン、エミリー、ジェーン。モードが主人公に選んだ子どもたちはみな、早熟で感受性が豊か、そして一般的な意味で恵まれた家庭を持っているわけではない。自分の子ども時代を終生記憶し、その豊かな泉からも小説の題材を汲み取っていたモードは、孤児を主人公にした作品を多く描いた。アンは登場する最初から孤児としてのアイデンティティーをしっかり持っているし、孤児でない赤毛のアンなど存在できない。

 モードは、普通に両親がそろっている家庭を想像だけでは描ききれないと思っていたのだろうか。結婚後も、やはり孤児にこだわっている。モード自身が、わずか2歳で母を亡くし、その後父が西部の開拓者を夢見て家を去った後、祖父母に預けられ、世間的には孤児になったためである。大家族に恵まれている銀の森のパットでさえ、母は病気で生活の場にはほとんど姿を現さない。

 かといって、モードの母の死のように、ものごころついた頃から与えられていた境遇は、他人が思うほど不幸ではないことが多い。もともと持っていないのだから、持っていた幸せを失うのとは大きな違いがある。現実でそうあったように、いつも、幼い主人公を支える別の誰かしらがいるのである。母を失うという悲劇を、モードが主人公に置き換えて物語のクライマックスにすることはなかった。しかし彼女の父はそうではなく、多感な時期にモードのもとを去り、新しい家族を持ち、離れたまま若くして西部の土となった。育ての親マシュウを突然の死によって失った少女時代のアンの苦しみには、父のヒューを突然亡くした(訃報を手紙で知ったと26歳の日記に記されている)モード自身のいたみが描きこまれている。

 最もモードの内面をあらわしているとされるヒロインのエミリーも同様に、11歳で理解ある父に死なれ、孤児になってしまう。これはアンがグリーンゲイブルズに来たのと同じ歳である。エミリーの母は彼女を産むときに亡くなっているが、これも誕生後すぐに両親を亡くしたアン、2歳で母を亡くしたモードと共通している。

 観察力の鋭さも、早熟の側面といえるだろう。子どもであってもそれは手加減のないエックス線となってあらわれ、真実を突く。ましてや子どもには親をはじめとする身近な大人たちの本音や愛情の有無が、あえて口にはしないまでも容赦なく見えてしまうものである。ものごころついたころから作家になろうと決意していた子どもなら、なおのこと観察力は鋭い。次のエミリーの洞察は、モードの経験を反映したものと思われる。

エミリーは自分が出会った人について、長い間どっちつかずでいることはなかった。二,三分のうちに、彼女はいつでも、その人が好きかきらいか、それとも無関心なのかを知った。

/「可愛いエミリー」

 ところで、第一作のアンを読んでいると、最重要人物のアン・シャーリーも、名乗るまでは単に「子ども」とか「少女」と形容されているのに気づく。マシュウがアンを駅まで迎えにいき、馬車での楽しいドライブと一方的なおしゃべりを終えて帰り着いたグリーンゲイブルズで、マリラに名を問われて初めて応えるのが、「あたしをコルデリアと呼んでくださらない?」という名セリフ。これによって未知の少女への期待はこれ以上ないほどに高まる。以後は名無しの子どもではなく「アン」になる。映像になると最初からアンの姿が見えているので違いがわからないが、巧みな使い分けである。

 その後ずいぶんたって、「アンの愛情」では、大人になったアンが、両親の住んでいた家の場所を知り、訪ねるエピソードが登場する。当時を覚えている住人から、若かった両親の賛辞に満ちた思い出を聞き、20年前の遺品の手紙を手にしたアンは、これからはもう孤児ではないと親友に語っている。

 モード自身はどんな外見の子どもだったのか。いくつかの写真を、伝記などに見ることができる。「わたしの赤毛のアン」(キャサリン・M・アンドロニク著)によると、髪は子どもの頃金色で、成長するにつれて深い茶色に。ひざまでの長さがあった。幼いときの病気によって金髪から濃い色に変わってしまったヒロイン、パットを思い出す。もっとも、アンも赤毛から金褐色と周囲も認める美しい髪に変化していったのだったが。モードは大人になってからの身長が165cmだったというから、子どもの頃も小柄でやせていたのだろう。写真で見ると秀でた額の利発な表情が印象的だ。これがあの、エミリーが不本意に撮られ、ナンシー大おばに渡ってしまう写真のエピソードとなった"顔中が額のような醜い"肖像だとしたら、そんなに悪くはないのだが。

 モンゴメリ家の遺伝で、彼女の瞳はときどき瞳孔が大きくなり、青や灰というより黒くなったという。瞳の黒い部分が大きくなるというのは、独特の魅力的な印象を与えるので、中世には意図的に薬品を飲んだ貴婦人もいたのだそうだ。小さな手はいちばんの気に入りで、きらいなのは口の形と歯。耳はエミリーそっくりな妖精じみた形で、同じく小刻みに動かせた。モードの外見は、アンというよりもエミリーに酷似していると思われる。

 さて、結婚して念願の母親となったモードの描いた子どもたちは、結婚前の作品で描かれた少女時代のアンにはなかったような幼さの感じられる会話が各所に見られる。こうした会話は、実際に主婦であり作家であり、牧師夫人であった多忙なモードと幼い息子たちの間で交わされたこともあるのだろう。

「母さん、背中がぞくぞくっと冷たくなるようなおやすみのお話をしてくれる?そしてそのあとぼくが眠ってしまうまでそばにいてくれる?」
「いいとも、いいとも。それよりほか母さんってものはなんのためにあると思う、坊や?」

/息子ウォルターとアンの会話/「炉辺荘のアン」

 11歳のエミリーが父を亡くしマレー家のニュー・ムーン農場へ引き取られることが家族会議で決定した後、初対面のいとこのジミーに甘える場面は、読むたびに頬をゆるませる子どもらしさがある。早熟なヒロインたちのなかでも芸術面でもっとも感受性の強いエミリーに、モードは「子ども」としての特性をきちんと与えている。もう11歳になっているのだから、孤児として果敢に生きてきたアンならば、こんなことはいわないだろうが、エミリーには必要な甘えだったのではないだろうか。

「ジミーさん、ニュー・ムーンでお菓子を作ったら、あたしに丼をはだけさせて、
屑を食べさせてくれるかしら?」
「ローラはさしてくれるよ──エリザベスは駄目だね」
いとこのジミーは真顔で言った。
「それから足が冷えたら暖炉で暖めさせてくれる?寝る前にお菓子くれる?」

/「可愛いエミリー」
参考文献
2002年03月05日(火)


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