ケイケイの映画日記
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2020年11月15日(日) 「罪の声」




とても良かった、素晴らしい!サスペンスだと思い鑑賞しましたが、観終わった後の感想は、時空を超えて、普遍的な人の良心を描いた、秀逸な人間ドラマでした。監督は土井祐泰。

大日新聞記者の阿久津(小栗旬)。東京での社会部記者から故郷の大阪に戻り、今は文化部の記者です。35年前の未解決の「ギン萬事件」を追う特別班に選ばれ、事件の概要を洗いなおしていました。一方、京都でテーラーを営む曽根(星野源)は、妻(市川実日子)と保育園児の娘と平穏で幸せな家庭を営んでいます。しかしある日、自分が「ギン萬事件」の脅迫テープに使われたのが、幼い頃の自分の声だったと知り、愕然。曽根もまた、過去に遡り、何故自分の声が使われたのか、事件を追います。

作品の組み立てが先ず上手い。阿久津と曽根、それぞれが聞き込みに回り、回想シーンも盛沢山にあります。二重に聞き込む場合もあり、登場人物は膨大です。そこでちょっとだけの配役も、名の知れた顔の売れた俳優を起用。適材適所の起用がズバズバはまり、全く混乱することなく作品についていけます。関西で起こった事件なので、関西出身の俳優を大量に起用。あの顔この顔懐かしく、お元気で何よりと観客に思わせる、作り手の敬意が嬉しい。特に桜木健一が柔道の師範役なのは、思わず顔がほころんでしまいました。

この作品は、実際にあったグリコ森永事件がモチーフ。キツネ目の男の登場など、上手く作品に生かしています。フィクションの犯人の造形が秀逸。確かにこれでは思惑が違いすぎ、仲違いも致し方なし。澱みなく進む展開に、本当にこれが真実ではないかと、錯覚しそうでした。

映画のメッセージは、事件の真犯人を暴く事ではなく、事件に翻弄された子供たちの、その後の人生を描く事でした。脅迫テープは、他に中学生の少女と小学生の弟の声が使われていました。曽根は阿久津に協力する代わり、その二人を探して欲しいと頼みます。自分と同じく、知らぬ間に犯罪に巻き込まれた二人のその後を、気遣っての事です。

探し出した弟の惣一郎(宇野祥平)の人生は、悲惨でした。今まで何も知らず、平穏に幸せに暮らしてきた自分との落差に、曽根は罪悪感に苛まれます。阿久津は「曽根さんの幸せは、あなたが頑張って掴み取ってきたものです」と励ましますが、それだけでしょうか?当時の環境、周りに居た大人の違いなど、当人の努力だけでは、どうにもならない事があります。惣一郎の姉で、やはり声を使われた望は、事件発覚当初、「私はこんな事で、自分の夢をあきらめたないねん!」と、心の底から叫びます。

私はこの作品を観るまで、ジャーナリズムとは、社会正義だとアバウトに思っていました。それだけじゃないのですね。望のような弱い立場、環境に翻弄される人に心を寄せ、夢を捨てさせない、それがジャーナリズムじゃないのかしら?事件を追い真相を究明するのは、何故この事件が起こったか、どうすれば防げるのかを紐解くためで、決して他人の下半身を追うのが仕事じゃないはず。

ジャーナリズムが希望を捨てさせないのが仕事なら、その希望を叶えるのが政治家じゃないのか?と思いました。この作品に出てくる元学生運動の活動家。彼は「化石」と称されます。学生運動の大物である重信房子が逮捕された時、不敵な笑顔を報道陣に向け、拳を振り上げる姿を、私は苦々しく痛々しく感じました。それは彼女の主義主張のため、多くの罪のない人々を傷つけてきた事を知っていたからです。そして時代は移り変わっているのに、それを見ようとしない。「化石」と表現されて、腑に落ちました。

その眼差しを、筆に変えて訴えていたら、と思いました。そしてジャーナリズム→社会正義とは、暴走する権力に対し、筆で対抗する抑止力なんだと、思い至りました。

阿久津は難役です。熱演すると嘘臭くなり、飄々と演じると、すっぱ抜きに疲弊して、記者としての自分を見失っている阿久津が伝わってこない。それをびっくりするほど、小栗旬は好演でした。曽根に「阿久津さんて、ええ人ですよね」と言われ、照れ隠しに怒る阿久津に、曽根がからかい、ええ人を連呼する場面が好きです。弱者に寄り添い、共に哀しみ怒れる新聞記者でした。

星野源も、実直で生真面目。面白味のない人であるのも伝わるのに、とにかく好人物に映りました。はんなり演じているのに、突出した存在感があり、彼の心の痛みや罪悪感こそが、正義なのだと思います。あの懐深い妻が、信頼するのも納得でした。

そして宇野祥平の惣一郎。とにかく痛ましい彼の半生を描く場面では、涙が出て仕方なかったです。魂の抜けた彼が、阿久津と曽根に出合い、再び生きる意義を見出すまでを演じ抜き、多くの場面をさらって行きます。こんな良い俳優だったなんて、びっくり。賞レースに必ず食い込むはずです。

映画の翻訳家になりたかった望。父親が娘に与えたのは、私の記憶が正しければ、サンローランのペンでした。サンローランはファッションブランドで、文具のブランドではありません。同じ高級品なら、モンブランではないかしら?そこに高ければ良い、高いものだと人に自慢できれば良い、そういう父親の思考が透けて見えるのです。その後の家族の顛末の象徴のように感じました。
私を含めて、大人は正しい価値観を身につけなくてはいけないです。

惣一郎の一世一代の場面に自慢の腕を奮い、上等なスーツを送る曽根。「私」が「彼ら」に出来る事も、きっとあるのだろうと思います。食堂の夫婦のように。

今年屈指の秀作です。コロナの第3波が来ている今、お勧めするのは恐縮ですが、是非劇場でご覧下さい。





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