ケイケイの映画日記
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2016年11月09日(水) 「ジュリエッタ」




前作は飛ばしたので、久しぶりのペドロ・アルモドバル作品です。変態の巨匠だったのが、いつの間にか変態が取れて、名匠と言われるようになったアルモドバル。そこに一抹の寂しさを感じていた私ですが、この作品を観て、それは還暦を超えた彼が思う、母たる者の有り方を、しっかり描くためではなかったかと、感じました。

スペインのマドリードで暮らす中年女性のジュリエッタ(中年期エマ・スアレス、若い頃アドリアーナ・ウガルデ)。恋人ロレンソ(ダリオ・グランディネッティ)と共に、ポルトガルに移住する準備を進めています。しかし娘のアンティアの親友だったベアから、アンティアを見かけたと聞くと、ポルトガル行きを取りやめ、ロレンソにも別れを告げます。実は娘とは12年間、音信不通のジュリエッタ。理由もわかりません。彼女は、昔二人で暮らしたアパートに戻り、娘の帰りを待つ決心をします。

ジュリエッタは読まれる当てのない、自分の半生を記した娘への手紙をしたためます。それがスクリーンに映像化されると言う仕組み。奔放だった独身時代、家庭にしっかり根付いた時代、そして娘と二人の中年以降と、大きく分けて、三部に分かれています。

鮮やかな深紅の布、印象的な鹿、入れ替わる老若の母の様子、列車や漁師の家などの風景は、上品な外連味も感じ、流麗です。相変わらずカメラが美しい。しかし前半は、もったいぶって美しく描いてはいますが、内容は退屈。少々背徳的な背景の元、アンティアの父である夫と結ばれたジュリエッタ。因果応報のような形で彼女の前に現れた事例に、自分を振り返るでもないジュリエッタに、疑問も感じます。

それが後半、娘のいなくなった後の焦燥や辛さ、その後の諦め、そして偶然からの希望を見出すまでの様子は、とても共感出来ます。これがかつて愛した男だと言うなら、もう諦めなさいと言えますが、相手は子供。諦めて違う幸せが彼女を待っていようと、ずっと後悔するはずなのです。同じ後悔なら、恋人を捨て、私も娘を待つと思います。

ジュリエッタは、娘が失踪後も、三年間は誕生日ケーキを買って、待っていました。でも娘からは電話すらない。毎年怒り狂ってケーキを捨ててしまう。私はこのシーンが好きです。母親だからって、完璧でいつも無償の愛を子供に捧げるなんて、幻想です。理由も告げず、母を毛嫌いして遠ざかる卑怯な娘の代わりが、あのケーキなんでしょうね。

原作はアリス・マンローで、とても抑制の利いた原作らしい。なるほどなぁ。中々自分の作家性を出せない中、監督の思いを汲んで出演するのは、アルモドバル作品の常連であるロッシ・デ・パロマ。ジュリエッタの夫宅のメイドで、彼女が後妻に納まってからも、働き続けます。前妻への憐憫の思いもあるでしょうし、強引な形で妻に納まったジュリエッタへ、同じ女として嫌悪感を持って当たり前。なのでジュリエッタは、彼女が姑のように煩わしい。スペイン版・家政婦は見た的な役柄のパロマですが、彼女が無表情に演じれば演じるほど、ホラーなのか?いやコメディなのか?と、不穏で禍々しくもユーモラス。淡々と流れる作品の中、パロマの存在感は大きかったです。

若い時分は奔放だっていいよ、完璧な母親でなくてもいい。でも子供の事は誰より愛して欲しい。いつまでも子供を待っていて。監督の母への思いは、そんな感じかな?子供の時、両親は自分の親である以外の何者でもなく、その前に男女であるなどと思う子供は、いないでしょう。寂しいのは母ばかりではなく、娘はその寂しさと共に、別の場所に愛を求める。やっと母の気持ちがわかった時には、自分も親になっていた。この解り易さは、万国共通なんですね。

ぐだぐだもったいぶった内容でも、カメラや演出で、それなりに見つめさせてしまいます。それが名匠ってもんなんでしょうね。これ、褒めてますから(笑)。


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