ケイケイの映画日記
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2011年04月18日(月) 「ビー・デビル」




観た方の評価はイマイチなようですが、そりゃそうだわね。この作品が描いているのは、韓国人社会に深く浸透している儒教精神です。その負の部分を批判している立派な社会派作品で、大いなるフェミニズム作品でもあります。それに気づかなければ、ただのバカな女が発狂するバイオレンスものです。私はしばしば涙ぐんだし、もの凄く溜飲が下がりました。韓国では多くの女性たちが歓声を上げて、この作品を迎えたそう。過剰には描いていますが、大なり小なり未だにこのような蛮行がまかり通っている証明で、震撼しています。監督はキム・ギドクの弟子になるチャン・チョルス。今回私の実体験を交えて細かく感想を入れるので、ネタバレです。

ソウルの銀行に勤めるへウォン(チ・ソンウォン)。都会の諸々のストレスから解放されるため、幼い頃育った離島へと向かいます。笑顔で迎えてくれた幼馴染のボンナム(ソ・ヨンヒ)始め、島には9人の住人しかいません。へウォンの前では明るく振る舞うボンナムですが、島の男たちからは凌辱され、夫からは暴力を日常茶飯受け、年配の女性たちからはこき使われるだけ使われて、まるで奴隷のような扱いを受けており、一人娘だけを生き甲斐に生活していました。島から一度も出た事のないボンナムは、へウォンにソウルに連れて行って欲しいと頼みます。

夫にはDVを受け、ヤク中の弟からは凌辱され、姑にあたる伯母からは一時も休むことも許されず働きづめに働かされるボンナム。皆から罵声を浴びせられながら家事から農作業、養蜂から海女までやり、船で都会に運ぶ島の産物は、全て彼女の仕事です。なのに一円のお金も自由にならない。観ている人は、何故彼女が逃げ出さないのかわからないでしょう。ボンナムはただの愚鈍な女性ではありません。島の古い因習に見える女性の扱いは、実は根強く韓国社会に残る男尊女卑の思想を表しています。

ボンナムがへウォンに憧れるのは、都会的洗練された姿だけではなく、都会の女性は、男尊女卑の扱いから脱皮していると知っているからです。そして在日社会も、一世からの古い慣習を引きづって社会が形成されており、私が結婚した28年前は、そりゃひどいもんでした。

夫の友人の奥さんは、辛辣な言葉を浴びせ続ける姑と何とか心の繋がりを持ちたく、新婚当時自分の結婚前の貯金の100万円(10万じゃないぞ)を誕生日に渡すと、何の言葉もなし。その姑曰く、「家庭の金は自分の息子が働いたもので、例え嫁の持参金でも息子の金。何故母親の私が嫁に礼を言わねばならいないのか?」だったそう。

亡くなった私の姑は、一世の女性にしては開放的で教養があり、愛情の深い人でした。私にも優しい人でした。しかしその姑にして、「女は泣いて泣いてやっと幸せになれる。」「夫婦喧嘩の時は、例え100%夫が悪くても謝るのは妻」「何があっても実家に逃げてはいけない」と教えられました。夫が友人と会話すれば、「だれそれが嫁さんを殴ったそうや」「あの嫁さん、口が達者やからな。」「そうや、殴られるような事言う、女が悪いねん。」当時若い妻だった私が、心の中で握り拳をぷるぷるさせている姿が想像できるでしょ?

私の夫はと言うと、新婚当時から毎日仕事帰りにパチンコ屋で「蛍の光」が流れるまで滞在、当時某スポーツ団体の事務方もしていたので、仕事休みはほとんどそっちに(もちろん無給。家から持ち出しまであり)。初めての妊娠でつわりで寝ていりゃ「つわりで寝ている嫁なんか、聞いたことない!」と詰られ、予定日より10日早く破水して、夫の職場に病院からすぐ来るようにと言われたと電話すりゃ、開口一番「今からパチンコ行こうと思っていたのに」と鬱陶しそうな声。帰宅すりゃ「子供が男でなければ帰ってくるな」。子供が生まれれば少しはましかと思いきや、私が乳飲み子を抱えて熱を出しても、「大丈夫か?」と言いつつ遊びには出掛けて行き、子供が熱を出しても仕事帰りは当然パチンコ。おろおろして病気の子供の世話をする新米母の私に、「夫が仕事して帰ってきたのに、飯も出来てないのか!」と怒鳴る。最初の子で大変だから、妻の手伝いをするという気なんぞ、全くなし。年子の次男が生まれてからも同じようなもん。あげく子供が小さいからと、自分だけ友人とスキーや旅行三昧で私と子供は置いてけ堀。当然家事も子育ても全く手伝いません。長男の時も次男の時も、臨月間近の私を置いて徹夜マージャンなんか平気の平左。少しでも私が抗議するもんなら、女が男に「口答え」するなんて生意気な!とちゃぶ台返し。私は「口の達者な女」なもんで、時には手もあげられました。優しい言葉なんか、かけてもらった記憶はありません。

口を開ければ、夫に尽くしぬいた自分の母親の賛美。お前なんか何が不満なんだ、もっと尽くせという事です。とにかく自分が一番大事。妻は人生のパートナーではなく、自分の人生の添え物です。妻は妻でも刺身のツマなわけ。何度共に歩きたいと訴えても、意味すらわからない。そういう人を観たことがないから。私の父親は84歳、「昔は女なんか、男のついでに生きとったもんや」と平気で言い放ち、同年代の友人は男兄弟と格段に差別され、「ほんま、女はぼろ雑巾の環境やったで」と言います。

これ全て実話です。他にもたっくさん!一晩中話せるくらいこの手の話はあります

まっ、夫にも言い分はあるようで、結婚当時先輩たちとやらに、「女は最初が肝心。夫のいう事には素直にハイと言うように結婚当初は厳しく躾けること。そうしないとつけあがる。」と言われたそう。年に数回の家族サービス、私や子供の誕生日にはパチンコに行かない、他には
薄給の給料袋を封を切らずに渡す、浮気はしていない、そして口には出さずとも家族の事は、心の底から思っているから、自分は充分良い夫だと自信があったそうです(火爆)。はぁ?当然以下の世界。ちなみにその先輩たちとやらは、妻から引導渡されて、続々離婚しています。

書いていて当時を思い出して涙が出ちゃうわ。夫の名誉のため、一応付け加えておきますが、今は大人しいもんです。言い合いになると自分から謝り、私が睨むと上げた拳も下ろします。家事だって少しは手伝います。毎日私の顔色見てます。当然です(きっぱり)。結婚して10年経って三男が生まれた頃くらいでしょうか?夫が徐々に優しく変わってきたのは。正に姑の言うように、韓国の女は「泣かないと幸せにはなれない」のです。しかしそこには、私が男の子ばかりを産んだから、と言うのがあったはず。夫は否定するでしょうが。

何故私が辛抱して離婚しなかったか?儒教精神ではありません。私は不仲の両親の元に育ったため、必ず幸せな家庭を持ちたいと強く思っていたこと。それと母親が私が結婚して6年目に亡くなり、帰る家がなかったからです。この作品のボンナムも、幼い時に両親を亡くしたと思われ、学校にすら行かせてもらえなかった描写が出てきます。そして子供。私の母は生前、「子供が生まれたら、夫に人質に取られたと思え」とよく言っていました。今の日本はシングルマザーも珍しくなく、それだけで差別されるなどないでしょうが、韓国では根強く父親の存在が尊重され、父親の居ない子には差別があります。劇中ボンナムが「やはり子供には父親がいないと・・・」と言いますが、聞き過ごしてしまいそうなごく普通の言葉の裏には、重い事情が隠されています。

そんなボンナムが娘を連れて逃げようと決意したのは、娘が父親に性的虐待に合っている事実を突き止めたから。ボンナムは婚前から村の男たちの慰み者になっていたので、娘は誰の子がわからず、それを承知で嫁に迎え入れたのだから恩がある、と言うのが伯母の言い分です。本当に理不尽な!

娘は性的虐待が何かもわからず、島を出るのを渋ります。しかし「島を出るとお母さんが泣かなくて済むのなら」と承諾。母親が叩かれる姿を見るのが一番辛いのだと言います。私はここで号泣。見つかったボンナムを、夫が髪を引っ張り回し、殴る蹴るの暴行をするのを止めるため、父親の手に噛みつく娘。私も母を殴る父親の手に噛みつきました。このシーンに自分を重ね、実母を重ね、号泣した韓国女性はたくさんいるはずです。挙句の果て、父親に突き飛ばされた娘は、頭を石にぶつけて亡くなってしまいます。日本女性の辛さが砂を噛む思いだとしたら、韓国女性の辛さは、口の中が傷だらけで、血の味を噛み締める思いではないでしょうか?

男尊女卑だけではなく、儒教には長幼の序と言うのもあり、年上の者のいう事が絶対。老人はことさら大切にされます。姑に口答えしようもんなら、犯罪ものです。それを絵に描いたような老女たち。自分も若き日はボンナムと同じ惨めさや辛さを味わったはずなのに。そして長年の習慣か、男に媚び諂う事だけは忘れません。老女の肌に沁みついた、惨めな人生の残骸なのに、彼女たちは気づきません。

「人質」のいなくなったボンナムが、島人を虐殺していくのは道理で、彼女が鎌を振りかざし、血が噴き出すたびに胸のすく思いがしました。本国の女性たちもそうだったでしょう。ハラハラするのではなく、絶対皆殺しにさせてあげたいと思いました。もうこの時点でホラーではないですね。18禁ですが、そういった意味では虐殺場面はオーソドックスで、斬新さはないです。泣きながら、「味噌でも塗っとけば治るわ!」と、息絶えた血だらけの夫の遺体に味噌をぶちまけるボンナムには、私も泣かされました。

これほど酷いのは、今の韓国でもないでしょう。確かに儒教批判はわかりますが、何故これほど大げさに描くのか?そこには本当に儒教の教えは、男であれば、年長者であれば、それだけで素晴らしいと教えているのか?と言う観客への問いではないでしょうか?最低の人間たちに、家畜のように扱われるボンナムが反撃することを正当化して描くのは、女たちよ、立ち上がれ!だけではないと思います。男尊女卑は、男性は女性から尊敬される人間であるべき、年長者は迷える若者を温かく見守り、人生の苦しみを楽へ導ける人であるべき、私は本当の儒教精神はこうであるのに、時の指導者たちは、自分たちに都合よく解釈して広げていったように思うのです。だって若い女性は常に少数派ですから。この作品を作った監督が若い男性だというのは、とても意義があることです。

ここでソウルという都会に住むへウォンの存在が重要になります。悪しき儒教精神から脱却した若い女性はどうなるか?ボンナムの手紙は封も切らないのに、自分が疲れると自然が癒してくれるわと、島へ帰郷。折角癒されに来たのに、ボンナムは煩わしい事を持ち込み、早く逃げなくっちゃと、友人の悲劇を目撃しても傍観者を決め込む。傲慢さが満ち満ちています。せっかく得た人としての権利や責任を、放棄しているのです。

へウォンをも殺そうとしたボンナムは、逆に彼女に殺されてしまいます。作品は傍観者である事も罪だと描いていますが、ボンナムに虐殺された人々と、へウォンの罪は意味が異なります。私は子供を失い人殺しをした女の末路としては、これで良かったと思いました。生き延びるよりボンナムも本望だったでしょう。

殺されるほどの罪ではなかったへウォン。自分で意味を掴もうとしなければ、彼女は傲慢な都会人のままです。ボンナムに報いるように、以前目撃したレイプ事件の目撃者として名乗り出るへウォン。現代の韓国女性としての気概と責任感に溢れており、この手の作品には珍しく後味が爽やかです。

ボンナムとへウォン。二人の若い女性を通して、韓国社会での女性の生き方に言及した作品だと感じました。今春は暴力をテーマにした18禁作品が、こぞって公開されていますが、この作品が一番、私的には傑作だと思います。


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