ケイケイの映画日記
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2010年11月16日(火) 「わたしの可愛い人ーシェリ」




わ〜、良かった!息子ほどの年の子との恋愛なんて、私には縁のないお話ですが、ジュリアン・ムーアと並んで50女の星であるミシェル・ファイファーがヒロインで、監督がスティーブン・フリアーズなんだから、砂糖菓子のようなお話なわけありません。既然としつつ、しっとりと女心の機微も絶妙に描いていて、中年以降の女の気構えを教えてもらった気がします。シニカルなユーモアがたっぷりな上品な作品です。

1906年、ベルエポックの時代のパリ。引退したココット(高級娼婦)のレア(ミシェル・ファイファー)は、現役時代貯めたお金を運用し、今はメイドや執事に囲まれて悠々自適の生活です。ある日同じココット仲間のマダム・プルー(キャシー・ベイツ)から呼び出され、自堕落な放蕩息子シェリ(ルパート・フレンド)の面倒を見てくれないかと持ち込まれます。幼い時からレアに憧れの気持ちを抱いていたシェリからのアプローチで、親子ほどの歳の差の二人は恋人関係に。周囲の思惑とは違い、その関係が6年続いたのち、シェリに同年代のエドメとの縁談が持ち上がります。

ココットというのは、美貌と知性を兼ね備え、上流階級の男性だけを相手に仕事をし、名声と財産を築いた当時のセレブみたいな女性たちです。その中で取り分け華やかな存在だったレアは、現役時代恋にうつつを抜かした事がないのが自慢です。そんな冷静で自分を見つめる力のある彼女が、息子ほど年の違うシェリを愛したのは、引退後だったからなのでしょう。

一見華やかなココットですが、社交界と言っても裏社交界の花。大輪の花を咲かせても、やはり日蔭なのです。ココットはココットとの付き合いしか許されず、心を許すメイドや執事はいても、やはり主従関係です。富と華やかな名声と引き換えの孤独。引退したとはいえ、隠居したわけではないレアの心の隙間に入ってきたのが、シェリだったのだと思います。

大人過ぎる程の余裕を見せてシェリを見送るレアですが、心の中は葛藤や煩悩でいっぱい。やせ我慢してるんだなぁ。引退したココット達は、金銭的には豊かでも、昔の華やかなりし自分を追いかけるだけで、現実は醜悪で滑稽で、まるで見世物小屋の住人です。そんな中、一人美しさを際立たせているレア。それはやせ我慢の賜物なのだと思います。

女が老いて行く過程で、知らず知らずになくなっていくのが、女性としての自尊心や自我です。パンツのゴムが伸びきったような感受性でデリカシーはなくなり、もはや女外。だって楽だもの。既然として女性としての誇りを保つレアに、大人になりきれないシェリが、憧れを抱き続けるのは納得出来るのです。MANは人と同義語だけど、WOMANだってやっぱり「人」なんだよ。

ファイファーが絶品です。もう50歳は回っていますが、皺も目の下のクマも隠さず、レアの表も裏も好演しており、美しさも抜群です。フレンドも遊び慣れた美青年の、心の底の孤独と純粋さを感じさせて秀逸、品があるのが良く、マカヴォイ君を追い抜く逸材かも?と、ちょっと期待させます。母親に皮肉っぽく「一族で初めての結婚だからな」と言うシュリに、複雑な生い立ちに翻弄された彼の人生が透けて見えました。いつも怪演で楽しませてくれるベイツは、今回も好演。レアからシェリをもぎ取る様子の嬉々とした様は、現役時代のレアへのひがみが見え隠れしていました。

シェリを追い掛けたくて醜態を晒す寸前で、またもやせ我慢するレアに、私はハラハラ泣けちゃって。でもこうでなくちゃいけないのだな。若い愛人を狂う無様な姿は、決して見せてはいけないのです。

当時を再現したファッションや調度品が素敵で、目の保養になりました。私も50近くなり、段々「女外」になっていく自分を、今日ほど反省した日はありません。60歳になっても、70歳になっても、「お年寄りだから」と男性に優しくされるのではなく、女性には優しくしないとと、思われなくちゃね。それは「灰になっても女」という言葉から連想される、浅ましさとは別物ですから。


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