ケイケイの映画日記
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2010年05月03日(月) 「クロッシング」




久しぶりに声まであげて泣きました。脱北のことは盛んにテレビの報道番組でも取り上げられていて、出てくるエピソードは既に見知った事も少なからずありました。しかし知っている事が描かれているのに、切々と深々と感情を揺さぶられるこの力こそ、これこそが映画なのだと感じました。監督はキム・テギュン。100人以上の実際の脱北者に取材し、綿密に脚本を練り上げ、4年かかって作った作品です。

かつてはサッカー選手として国家代表にも選ばれたキム・ヨンス(チャ・インピョ)。今は炭鉱夫として働き、貧しいながら優しい妻と明朗な息子ジュニ(シン・ミョンチョル)とを養い、温かい家庭を築いていました。しかし充分な栄養も取れない暮らしが続き、妊娠中の妻は結核に罹りますが、療養費がありません。意を決したサンスは、身の危険を冒しながらに中国に渡り、出稼ぎすることにします。懸命に働くヨンスでしたが、妻はジュニの行く末を案じながら亡くなります。一人残されたジュニは、父親と再会すべく、中国を目指します。

泥だらけで肉体労働に励むサンスに、笑顔で迎える妻と息子。二人はヨンスに対して敬語です。そこには大黒柱として家族を養う夫・父に対しての、尊敬と信頼が伺えます。隣人との気のおけない交流、小学生同士の淡い初恋。北朝鮮と言えば、独裁政権下で悲惨な状況ばかりがクローズアップされますが、このように穏やかな笑顔で暮らす当たり前な一面もあるのだと、そこにまず意表を突かれました。市井の人々の心映えの美しさを目の当たりにし、新鮮でした。

しかしヨンスの妻が妊娠中に栄養失調から結核に倒れてから、ヨンス一家の暮らしは暗転します。真面目に働いても食うに困る生活。秘かに中国国境の警備員に賄賂を渡し、物資を密輸していた隣人も警察に捕まり、薬を入手出来なくなったサンス。そもそも結核の薬が、北朝鮮では入手困難なのです。家にある金目の物は全て現金に換えても、生活は苦しさを増し、ついにヨンスは家族を守る為、出稼ぎのため、一人中国への脱北を決意します。

設定は2007年なのですが、人々の暮らしぶりから街の様子まで、まるで終戦直後の日本なのです。テレビは貴重品、配給で手に入りにくい物は闇市で買い、ガスの使用もありません。日本ではもう30数年前に炭鉱は次々閉鎖されているのに、国家の貴重な資源として国民に吹聴するマスコミ。余りの文明の遅れに、とてもショックを受けました。しかし禁制の韓国のサッカーチームの試合のビデオを観ていたヨンスは、「ちゃんと食べているから動きが俊敏だ」と言います。かん口令が引かれ、北朝鮮の庶民は、韓国の実態をほとんど知らないと思っていましたが、どうやらそうではないようです。

幾度か脱北の様々な様子が出てきます。そこはやはり、賄賂が横行したり、脱北をビジネスにしている人々も出てくるのですが、胡散臭い人もいれば、人助けにしか見えない人もおり。観ていて複雑な気分になります。そしてやはり脱北の様子は命懸けです。万に一つの狂いも許されず、アクシデントは自分で乗り越えなければいけません。鬼気迫る迫力が、観ている者に伝わるのです。

夫の帰りを待たずに亡くなってしまう妻。こんな時日本なら韓国なら、10歳程の子が、路頭に放り出される事はないでしょう。しかしたった一人残されたジュニは、術もわからぬまま父のいる中国を目指します。

私は家族を置いて脱北した人は、何故残した家族が不遇を託つのを知っているのに、自分だけ脱北するのか?と不思議でしたが、この作品を観て「壮絶な成り行き」で、そうなった人がたくさんいるのだと理解出来ました。特に後半のヨンスの展開は、誰が悪かったというのではありません。生き残る事に懸命であった、ただそれだけのことなのです。ヨンスの雇い先の上司の、「誰にでも色んな事情があるんだ」と言う平凡な言葉が、とても胸に沁みます。

やっとの事で父とジュニが電話で会話出来た時、ジュニの最初の言葉は「お母さんを守れなくてごめんなさい」でした。この言葉に私は号泣。一人で恐ろしかった、または結果的には置き去りにした父親を詰る言葉があってもよかろうに、たった10歳の子の言葉は、自分を信頼して母を託してくれたはずの父の期待に応えられなかった、その事への謝罪でした。息子として、幼くても男としての責任を果たせなかったジュニの悔恨は、そのままヨンスの重い重い悔恨でもあるのです。他方は信じられない劣悪な環境に身を置き、他方は北朝鮮ではあり得ない安定を享受し。しかし一緒に暮らしたいと言う共通の願いは、二人とも一度も忘れた事はないのです。

この作品の成功はヨンス一家のお互いを思いやる強い心を、シンプルに力強く描いた事だと思いました。今の日本や韓国でジュニのこの言葉は、中々引き出せないセリフだと思います。私も不謹慎ですが羨ましいような感情に駆られ、この美しい心を持つ善良な家族の幸せを願わずにはいられないのです。この作品は韓国国内のみならず、世界的な展開を視野に入れた作品のはずです。この作りなら、どの国でも理解出来るのではないでしょうか?

この作品を北朝鮮をバッシングするプロパガンダ映画だと評する声も聞かれます。確かに想像以上の劣悪な収容所の様子、ストリートチルドレンの悲惨な様子が描かれ、目を覆いたくなる描写もありました。しかし私が観る限り、声高に北朝鮮の体制を批判する描写は皆無でした。映したのは「ありのまま」だった、と言う印象が強く残ります。作り手はその「ありのまま」を観て、観客に感じて欲しかったのではないかと思います。

出演者ではヨンス役のチャ・インピョが大熱演で好演しています。誠実で心の逞しさを感じさせる風貌が良く、夫として父として、責務が果たせぬヨンスの壮絶な焦りに、とても感情移入させられました。ジュニ役のシン・ミョンチョルも素直で明朗な様子が好感が持て、何度も泣かされました。

エンディングで流れる浜辺で家族ぐるみで近所の人々が遊ぶ様子。子供たちは元気にはしゃぎ、大人は鍋を囲みお酒を飲み、楽しく歌い踊り。仕事に励み家庭を守る人々が、休日にささやかに楽しむ、人として当たり前の風景です。その当たり前の生活が許されないのが、今の北朝鮮なのです。同じ民族として、朝鮮半島の半分に住む人々が、心穏やかに人生が送れるよう心から願う、監督の心が現れていたように思います。

心斎橋シネマートは超満員でした。大阪ではここだけの上映ですが、一人でも多くの方に観ていただき、上映館が増えればと思います。私の感想が微力でもその力になればと願っています。


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